久野の溜池
舟原バス停から200メートル南西に入った当たりに溜池がある。これは舟原よりひとつ下の欠の上と言う集落の田んぼの為の、貯水池だ。欠の上でも田んぼは随分減り、川からの水で充分なのか、現在は貯水池としては、利用されていないと思う。久野では昔から有名な池らしく、子供の頃ここで泳いだという人は多いい。名称もあるのだろうが、今の所不明だ。誰か知る人があったら教えて欲しい。現在はここが奥まっている上に、入り口が極めて判りにくいと言う事もあり、この存在すら忘れ去られている。管理が離れた柿の上の生産組合らしいし。土地は小田原市のものらしい。舟原にありながら、舟原の人にはちょっと遠い存在になっている。一番顔を出して見るのが、田んぼに近いので、水周りのついでに眺めに寄る私かもしれない。周囲には篠竹や榎、ミズキ、太い藤蔓。などが覆うように茂っている。まるで自然状態に戻ってしまったというところが、何か神秘的で、風の谷というか、トトロの森のようだ。久野の河童池と言ってもいいものだ。ともかく近づくことも困難になっている。
池の面積は直径が25メートルぐらいだろうか。沢水がかなりの水量で、流れ込んでいて、どんな渇水でも水はある。沢水が入り込む上流部の方はおたまじゃくしの形で、上流に尾を引いている。つまり火の玉型である。下流をしっかりと守るダム部分は大きな石積みで、見事なものである。石積みのさらに下流側は土積みで補強し、その下に下流に流れる。水門がある。現在は溜池の栓にあたる部分が、縦方向に、太いコンクリート管が立っている。30センチ間隔に30センチほどの穴が空いた状態である。そこで水位調整がされるようになっている。始めてみる形式だが。これが普通だったのだろうか。現在泥が溜まり、たぶんそのコンクリート管自体が深く、埋もれていて、排水溝がごみで詰まる分だけ、水が自然にたまる状態である。泥の量を計ると、既に1間はあるようだ。昔はきっとカイボリをしたものだろう。田んぼが終われば開濠をして、その泥を畑に入れるのが良い肥料となった。集まった魚も大事な食糧になった。一度池を乾かすことで池を健全に保つと言う事もある。
この池は史跡としても、とても価値のあるものに違いない。石組みには往年の名残もあるし。久野の田んぼの成り立ちを知るためにも、残す価値のあるものだ。又、久野の歴史的遺産を繋ぐ、大切な資料でもある。棚田と溜池の組み合わせは、是非とも次世代に残したい。舟原でも、久野全体でも、水の権利はとても重要な要素であったはずだ。それは土地の権利や入相の権利と、比して考えてもいいものだ。舟原に5基も水車があったと言う事も、何とか形として再現しなければならない。「水」と言うものが暮らしの根幹にあった時代。又これからも、水を一番大切にしなければならないと言う事を、記念して行く必要もある。昨日の確認では周りの藪を刈り払えば、それほど問題なく環境整備が出来そうだった。
坊所ではサイダー会社や酒造会社があったそうだ。水があると言う事が、久野古墳群というほど、たくさんの遺跡が出来る恵まれた場所になった。水が豊かである。これだけで、久野地域の大きな財産である。久野川には、固有種の山女が存在した。とても豊かな生物の世界が広がっていたはずだ。生き物の多様性を回復する。これが、この地域の一番の目標と言ってもいい。これから100年後200年後の久野に、たくさんの生き物が居れば、暮らしも大丈夫なはずだ。そうやって、ご先祖様は木を植え、水路を守り、畑を耕した。そのお陰で、美しい里山の環境が、かろうじて残されたありがたさ。この財産をふくらませて、次の子供、孫たちに、残してあげること。それが、唯一ここに暮すものの出来ることのはずだ。
付記
昨日夜家に戻ると、Iさんから資料が届けられていた。溜池が「小田原の史跡」川西版に記載されている。編集は小田原市教育委員会で、昨年、考古学界の岩宿賞を受賞された諏訪間氏の名前もある。ここでもため池の名前は確認されていないようだ。万治年間(1658~60)築造とも言われている、とある。3段に築かれていたものが、ここだけが残ったらしい。ただし、記載に水利的に矛盾もあり、もう少し細かな調査は必要だろう。