おもしろい人になりたいなあー

人の心に気持ちが届くような、おもしろい人に成りたいものだ。テレビに出てくる多くのお笑いの人達はその達人なのだと思う。自分を笑いものにしながら、人の気持ちを愉快にさせてくれている。ああなりたいと思いながら、どちらかと言えば人を緊張させてしまう人間という自覚がある。
自分の周りにある、何とかしなければならないと言うことばかりに気持ちがいってしまう。例えば、石垣島の自衛隊基地のことなど、関わらないようにしていたい。絵を描いているためには気にしない方が良いのはわかりきっている。しかし黙っているわけに行かない性格である。そうなるとついつい引きつって緊張人間になってしまう。
気持ちが引きつっていれば、どうしたって人を緊張させてしまう。笑いを引き出しながらと言うことができない。それでもみんなが笑い合えるような親しみやすい活動でなければ、成功しないのだろうと思う。その点石垣島の若い人達は明朗で快活に、自衛隊基地の阻止を目指していて、実に見事だ。
ナイジェル・カンバーランドと言う人が、成功している人の習慣100という本を書いている。こういったノウハウ本は読んだこともないのだが、その目次にある100を読んでみて面白かった。そのうち10ほどは自分が自分になるための習慣でもある。
●1 夢を持っている
●10 一生、学び続けている
●23 健康に気を配っている
●34 年をとることを受け入れている
●44 自分を大切にしている
●55 今、実行する
●61 健康的な食生活をしている
●79 自然と接する機会が多い
●89 呼吸を大切にしている
●91 日記をつけている
100の内10は一致していた。しかし、会う人を楽しくさせる。と言うのが入っていないのが不思議だ。成功するという目標がたぶんお金もうけのことなのではないだろうか。目的が違えば、当然違ってくる。絵を描くことでさえ、一人では出来ない。普通の人間が自分をやり尽くすと言うことは、天才とは違う道筋が必要と思っている。
残念なことに天才でないことだけは確かなので、ごく当たり前の人間が自分をやり尽くすことを成功だと考えている。凡人の道はただただ努力をして行くことではないかと思う。それでも天才の到達点には至らないだろう。それは致し方ない運命である。自分をやり尽くせれば、本望である。他と比較したところで始まらない。
この100は大勢の名声を得た人の寄せ集めの人生訓なのだろう。私の場合で言えば、人生の成功とは自分になれると言うこと以外にないとおもっている。成功は一人一人で違う。人には失敗者と思われるかもしれないような、自分だけの成功もある。
他人が考える人生訓のようなものは10中9はむしろ私には無意味だ。成功とはそれぞれのものだから、一般論は余り役立たない。最近の世の中での成功と言えば金儲けばかりである。年収一億円以上の人の習慣というような本もきっとあるのだろう。
絵を描くという日々の修行である。楽しい良い修行なのだが、これがなかなか難しい。私を知るために必要な習慣は絵を描き続けること以外にない。絵の描き方があるとすれば、それは禅の心境で絵を描くことかと考えている。絵を描く境地が絵に表われてくるのを待っている。これがままならない訳だ。明らかな修行不足である。乞食禅も難しい物だ。
自分をやり尽くすと言うことだと思う。今日一日、やり尽くせば良いだけのことである。明日どころではない。そう気持ちを定めるほか無い。絵はまだまだの道のりである。やっと足がかりをつかんだ程度である。いままでの60年を超える年限、何故やり尽くせなかったのか残念である。
その都度精一杯やっていたつもりでも、生きるというのは、ほとんどが見当違いである。正しい方角を定めることが何よりも難しい。実に無駄骨ばかりを積み上げている。たぶん欲が道を間違えさせているのだろう。この欲に溢れた乞食禅も私そのものだというところが難しいところだ。
絵が描くと言うことが良いのは、そういう自分の愚かさや、至らなさが表われているところだ。何もごまかしようがない。絵がまだまだなのは、自分のまだまだが最大の原因である。見えない物は描けないに決まっている。どのようにもがこうとも見えているところまでしか描けない。
見えていないのに描けているとすれば、それは人が作り出した絵という物のまねである。これが一番危険なことだ。どれほどつたなくとも、絵らしくなくとも、自分の観ている世界を探す以外にない。そのことに気付いただけでも良かったとするほか無い。
今はここまでである。計画としてはまだ28年ある。100歳まで生きて絵を描くつもりでいる。そこまでやってダメなら諦めも付くだろう。昨日より今日の絵の方が少し良いかもしれない。そういう気持ちで書いている。
一般に絵を描いている人を見ると、その絵描きの生涯で良かった時代は若い時という人が大半である。その良くなった時の絵を一生涯模写して終わる。そんな絵描きがほとんどである。あれだけは嫌だ。私の場合は、残念だか、幸運なのか分からないが、褒められたこともない。
スタート地点がすごく低いから、わずかづつでも良くなると言うことが可能である。今になってこういうことかと、誰でもが若い頃気付くことに、今頃気付いている。そうして、去年よりいくらか今年の方がましかもしれない。おととしより、去年の方がましかもしれない。まあ自己判断だから、本当かどうかは分からない。
どれほど歩みが遅くとも、すこしづつ進んで行ければ、到達できる可能性はある。到達するところは別段難しいところではない。自分の限界までである。敗北主義のようにも見えるが、それが私絵画の到達点である。それでいいのだと思う。
絵もおもしろい方が良いと思う。見た人が笑えるようであれば一番である。それにはまず私がおもしろい人にならなければと思うが、これは絶望的である。それでも絵は笑えると言うことは無いとは言えない。ゴッホの絵を見て、思わず涙を流した人は多い。
私の絵を見て思わず楽しくなったというのであれば、本望であろう。