本から得るもの

   


  
 本を読むことで体験をしている。台湾の小説を読んでいると、独特の空間と時間の浮遊感覚に入り込んでいる。それで台湾の小説にはまった。余りに自然に時間を行き来するので、読んでいて混乱指導でも良いと思いながら読んでいる。人間の記憶はそういう世界を漂うものである。

 いつの間にか読者の私が書いている作者になって、描いているような気分で読んでいることさえある。一体何を書きたいかという説明的な意味は混乱するが、この抽象画のような混沌感覚は体験したと言える実感に繋がる。理解しようと言うことを捨てれば、文学的体験が出来ることになる。

 今日が昨日であり、あしたでもある。時間と空間の扱いが、実に主観的で自由自在なのだ。この時間の混沌に巻き込まれながら、作者の世界をさまよい広がってゆく。だから小説と言うよりまるで、始めて出会う体験をしているようなのだ。そうなるまでは少し時間がかかったことだ。

 これが台湾の小説が好きになった理由だ。そして小説で知った台湾というものに興味がさらに湧いてきた。台湾の現実は中国という巨大な国に脅かされ、存亡の危機に常にさらされてる。その一方でというか、だからこそ独自の文化を創り上げようとしているように見える。

 歴史的困難が緊張した文化を生み出している。本来台湾に住んでいた人。古い時代に中国から渡った人。そして蒋介石と共に中国から逃げてきた人。それぞれが対立する関係の中で、新しい台湾を模索し、魅力的な台湾を作り上げた。今更、中国には戻れない気持ちの人が大多数である事も当然のことだ。
 
 絵を描いていて、気持ちを変えようとして本を読む。本の世界に入って絵を一度忘れるために読んでいる。本を読み始めると、たちまち他のことは忘れてしまう。頭が絵から離れ一新する事ができる。辺りを散歩してくることと似ている。

 次に読むことにしている本が、アトリエカーに無いと安心できない。ある意味読書中毒なのかもしれない。井伏鱒二全集があるので、何度でも読める安心感がある。絵を描いて一休みというと、つい本を手に取る。しばらく読んで顔を上げて絵を見ると、始めて見る絵のような気になる。

 絵を描いていて一休みに本を読んでいて台北の風景の中に入り込んでしまう。その気分のままに、台北の絵になってしまうこともある。そういえば、水彩連盟の増永先生の台湾時代の絵はなかなかいい。もっと台湾の話を聞かせて貰えば良かった。

 本好きにしてくれたのは両親である。時々開かれた家族読書感想会が本好きにしたのだろう。志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」をそれぞれがその面白さを発表したことがある。路傍の石は文学的には評価できないというような話も記憶している。大衆小説と文学作品の違いと言うことは良く出た。

 ドフトエフスキーを教えてくれたのは兄である。私が家にいて学校に行かなかったときに、これはという本を学校の図書館で借りて、毎日一冊持ってきてくれたのだ。何故家にいたのかが良く思い出せない。もしかしたらあれは小学校6年生の時のことだと思う。理解もしないまま読んでいたのだろう。兄も本好きだった。

 少し話は外れるが、順番に歌を歌う音楽会もやっていた。これは人前でオクせず自分を出せるようにと言う事だったと思う。家族そろって木板版画を作るようなこともあった。忙しすぎるような両親が、そういう時間を作ってくれていた事のありがたさを気付かず、当然だと思っていたのだから情けない。今に成って感謝しても遅い。

 両親は自分が楽しいからやっていると言うことで、子供のためというようなそぶりが全くなかった。たぶん父は子供の頃親がしてくれたことから学んだのだろう。家族の形はそれぞれのことだ。私には私の家族がやはり最善のものだった。今にして分かる有り難い両親であった。

 石垣島に来る前には石垣島に関する本を随分と読んだ。タウンパル山田書店の沖縄関係の本の量は半端ではない。そこに私の本も置かれていたので、山田書店がさらに好きになった。山田書店には今も行きたいのだが、コロナが収まらなければ入れない。
 
 沖縄の小説もあれば、研究論文も多数あった。だから、石垣島で地元の方から聞く話は本ですでに知っていることがほとんどである。島の人の話は本で知った情報を、貴重な生なお話として確認しているようなことになる。

 石垣島には南山舎という優れた出版社があり、良い本を沢山出している。「月刊やいま」という質の良い雑誌を出版している。こんな出版社のある所なら間違いないというのも、引っ越した理由の一つだ。今度「月刊やいま」に絵と文章を載せていただくことになった。これはここに私の絵と文章があれば良いと思い、図々しくお願いして実現できたことだ。
 1年ほど前に絵はがきを作ったのは、その提案のためだった。実現できるか分からなかったので、そのことはブログには書かなかった。月刊やいまがもっと良くなるためには私の絵があった方が良いと思ったのだから、随分厚かましいとは思う。

 インターネットという情報入手も随分しているが、ネットで本を読むというのはどうも出来ない。本は読み終わったらいらない場所をとるものなのだが、もう一度読む可能性のある物は捨てられない。ネットで読むことはまだできない。今度のタブレットは本が読めるようにまるで紙のような調子に調整されているのだが。

 今のところは中毒的読書は手に持って読むと言うことと連動している。活字を追っている感触が良い。練習すればネットで読めるようになるだろうと思っている。青空文庫というものがある。著作権が消滅した本をネット用に書き起こしているボランティア文庫である。魅力的な企画だ。

 宮沢賢治の本はこれでほとんどを読んだ。昔は宮沢賢治のことを理解できなかったのだ。今に成ってそのすごさをようやく分かった。家のWi-Fiでダウンロードすれば、いつでも読むことが出来る。有り難いことだ。

 宮沢賢治を知ったことは青空文庫を知ってからのことかもしれない。著作権などというものはなければ良いと思う。宮沢賢治からそう言うことを学んだと言える。宮沢賢治は自らを作家などとは考えていなかっただろう。すべて、理想郷に注ぎ込んで生きた。

 宮沢賢治は理想郷を目指して開墾生活をしながら、農民芸術を実践した。生前出版されたものは詩集が一冊だけだとある。気がつくのは文豪と言われた森鴎外が消えかかっている。そして、宮沢賢治の評価が際立ってきている。アクセスランキングではベスト一〇〇に一番多いのが宮沢賢治のようだ。

 ドフトエフスキーの作品も青空文庫で読める。これを書き起こしている人は長編だから大変なことだろう。現在作業中の作品が沢山ある。だか書き起こされていれば、目が衰えたとしても、パソコンが読み上げてくれるだろう。有り難いことだ。
 
 

Related Images:

 - 身辺雑記