Chat GPT(チャットGPT)

ヘゴの苗を3本植えた。下地さんがパイナップル畑にあるのを持ってきてくれたものだ。2本は何とか活着したようだが、1本は何とか助かるかという所だ。ヒカゲヘゴの移植は難しいという話だ。水が好きなようだから、それなりの場所に植えたが、水がありすぎるところが一番危うくなった。
Chat GPT(チャットGPT)が話題になっている。Amazonが文章などを自動でつくる生成人工知能(AI)を提供すると発表した。クラウドを通じた生成AIの提供は米マイクロソフトや米グーグルも準備をしている。生成AIの利用環境の整備が世界で進む。
一番おもしろかったのが、西村経済相の国会答弁がChat GPTで作られるようになるだろう、という話だった。確かに官僚に作ってもらっている答弁なのだから、Chat GPTに任せた方が確実であるし、間違いが少ないのだろう。西村氏がいらないという意味になる。
創造的でない仕事はChat GPTがやるようになるという話だ。国会では創造的な議論などしていないと、政府が認めているということになる。個人的にはロボット裁判官は是非とも実現してもらいたいと思っている。法律の判断に個人的な偏向があってはならない。憲法の拡大解釈など、ロボット裁判官なら絶対にしない。
絵も描けるらしい人工頭脳も登場しているらしい。こうしたソフトはどんどん進化するから、ロボットに任せた方が良い絵は出てくる。商品絵画の時代が作り出した、商品絵画の時代が終わり、AI絵画の時代が来る日も近いAmazon作品とグーグル作品で評価が違ったりするのか。
創造性とは何かが問われるようになる。より人間が人間らしい仕事に専念する時代が来る。むしろそういう意味になる。機械で済ませるような仕事をしている人が不要になる。過去の仕事もそういう観点で再評価されることになるだろう。
何が人間のためになる絵画なのか。人間の個別性とはどういうことになるのか。人間が表現をすると言うことの意味がかわる。表現し創作することは自分自身の制作問題になるという、つまり長年主張してきた、「私絵画」の時代が来るということのようだ。
絵画が機械で作られる時代が来ることは中学生の時に想像していた世界だ。絵を描いていて、人間が描く絵でなければならないと単純に思った。自分が描くということがどういうものか考えていたのだ。機械で描くような絵を描いても何の意味も無いと主張していた。その時代が60年後にいよいよ近づいて来たのだ。
予防医学は大きく変化するだろう。データーを入れればソフトが判断してくれるのであれば、コンピュターの人間ドックに行くのもありだ。自分が機械の前に行き次々と検査をする。名医とまでは行かないが、普通の医師よりも機械の方が正しい判断を下すという可能性はたかい。遠くない時代に実現することだろう。
大学生の提出小論文がChat GPTで書かれるので困ると、大学で問題になっているという。利用を禁じた大学もあるらしい。大学教授の論文がChat GPTで書かれるのでは困るというのが本当のところではないだろうか。そもそも論文の勝手な引用というようなことは、なくなる。
盗作するまでもなく、Chat GPTで書いて貰えばいいわけだ。Chat GPTは著作権がないという。著作権がない時代が来るというのは朗報だ。著作権で保護するというのは、作り出したものはみんなで利用すれば良いという考え方に敵対する。作り出したことだけで満足すれば良い。利益があるから想像するという考えが間違っている。
将棋ソフトが登場して、人間より強くなった。しかし、将棋は藤井壮太6冠の登場で、ますます人気が沸騰している。藤井将棋を見ていると、人間にはコンピュターソフト以上の魅力があるということが分かるのだ。ゲームの中でさえ、個性の魅力というものが出現する。
人間というものは生き物で、実におもしろいものだ。Chat GPTが出来て人間のやるべき仕事が却って見えてくるはずだ。機械でやれるようなことはやらないですむような時代は素晴らしい時代だ。人間が好きなことだけやって生きることが出来る時代が近づいている。
著作権というものがそもそもなくなる。これも良いことだ。人間の個別性など知れている。水戸黄門のパターン化のようなもので、テレビドラマの筋書きなど、似たようなストリーの繰返しだろう。となれば脚本家を雇うよりも、Chat GPTを利用すれば良いとなる。すでにそのようになっているのかも知れない。
考えてみれば世の中のほとんどの仕事はコンピュターに置き換えられる。コンピュターが考えて、ロボットが働くとすれば、随分楽ではないだろうか。改善もAIが考えてくれ宇r。労働人口の減少など何の心配もいらなくなる。人間の労働価値というものの意味が、変わるのだろう。
人間らしい仕事とは何か、これから考えて行かなければならない。好きなことをやると言うことが何か。もう一度考え直すべき時代が近づいている。新しいものを作り出すことはChat GPTは苦手なはずだ。正解がある事であれば、即座に回答してくれるだろうが、未だかつてないことは難しい。
正解のないのが人間である。人間にとって何が良いかの回答は難しいはずだ。そもそも文章を書いて貰うとして、ブログの文章を書いて貰っても、惚け防止にはならない。まあ評判のブロガーというものには成れるのかも知れないが、他人の評価など何の意味も無い。
私にとってブログを書くと言うことは、深く考えてみるということなのだ。その意味では上手く使えば、Chat GPTも参考になるのかも知れない。「石垣島の直播き稲作の面白さ」と書いて、5000字で書いてみてくださいとすれば、書けるのかも知れない。その中には私が想像もしていないこともあるのかも知れない。
参考には成るだろう。たぶん知らない情報も含まれているかも知れない。たぶん実際にはほとんど役立たないことだろう。石垣島でやる直播きは私以外には実例がないのだから、Chat GPTはたぶん私の文章から、文章を作る意外にないのだろう。農業の実際は情報がなければ始まらない。
うまくAIを人間が利用するようになる。政府も西村氏のように、おおいにAIを使って欲しい。その方がましに違いない。きっとChat GPTがいうのだから正しいと主張する人が出てくるだろう。藤井壮太はコンピュター推奨の手だけを指すわけではない。そこが魅力的なのだ。