将棋は椅子対局を認めるべきだ。
将棋は正座をして行う。これで足を痛める棋士が多い。まだ23歳の藤井聡太7冠の最近の悩みは脚の痛いことだそうだ。渡辺9段がA球順位戦で突如投了した。場面はこれからというところで、互角の勝負で投了した。理由は脚が痛くて続けられなかったというのだ。
これは深刻なことになった。実は羽生7冠が一度7冠を達成したのだが、すぐに一つを失い、二度と7冠に復帰できなかった。その理由は脚が痛かったからだと言われている。これは深刻なことではないのか。正座をしなければ成らないと言うことでは、海外から将棋の棋士が生まれる可能性もない。
囲碁ではすでに椅子対局がある。しかし、大きなタイトル戦は今も畳に座る対局である。畳に座る姿は日本の伝統ではあるが、すでに日本人の暮らしは椅子生活がほとんどであろう。トイレなどは和式トイレでは使えないという人が多くなっている。
そもそも畳生活を庶民がするようなことは無かったとも言える。普通の百姓は土間を台所として使い。板の間に筵を引いて暮らしていたのだ。江戸時代の庶民の暮らしには畳はない。筵は藁を編んだものだから、稲作をしていれば、普通に農家では作られていた。
その意味で正座の文化というものは、武士階級や僧侶など特別な人の、暮らし方だ。将棋の棋士も幕府に役職として召し抱えられ、正座をして威儀を正し、将棋を指すようになった。そして、時代を経て戦後になり、将棋が新聞社などから、お金を貰い興行化するようになる。
伝統文化であるということが、必要以上に強調されることになる。遊びではなく、文化的なものなのだとうことで、その存在意義を社会に認知して貰おうとしたのだろう。坂田三吉のようでは困ると言うのが、将棋連盟の方向になる。タイトル戦では和服を着て、正座で対局を行うのが通例になっている。
その内、丁髷を結うことになるかも知れない。帯刀すらしかねない。そんなことを装わないでも、将棋はゲームの王様として、コンピュター時代に生き残るはずだ。将棋を越えた頭脳ゲームは登場するかもしれないが、それによって将棋の価値が下がることはないはずだ。それくらい良く出来たゲームだ。
相撲興行が生き残るために新聞と連携した。そして今の大相撲がうまれた。しかし、今すぐに勝てれば、と言うことに集中しすぎた。大相撲は体系が大型化しすぎて、膝や腰の故障が相撲生命を終わりにする力士が多い。ルールの改変が必要なところに来ている。
将棋も椅子対局を認める時代が来ている。コンピュター革命の申し子が将棋ではないか。次の時代の最先端を歩んでいる将棋が、何時までも和服と正座で演出する必要はない。もしそういう伝統的様式を重んじた、対局を臨むのであれば、持ち時間30分ぐらいのテレビ対局までである。
身体を壊してまで座る対局を強制するのは間違ったことである。藤井7冠が脚が痛くて対局が出来ないと言うときが来る前に、将棋のルールを変えなければならない。畳の部屋でどうしてもやりたいのであれば、床置きの良い椅子がある。私は絵を描くときに使っている。
ゲーミングチェアーの座椅子タイプである。しかし、これでは将棋指しがゲーマーに見られてしまうおそれがあるので、まあ、その危険はかなり大きいのだから要注意ではある。「ゲームと将棋のどこが違うのか。」ゲームはやったことがないので違いは分らないが、頭の訓練になるなら同じことだろう。
そう、ゲーミングチェアー座椅子は一年を通して、一日中座っていても、脚を痛めることがない。私は実際に座って5年が経つ。極めて良く出来ている。将棋用に和風のものを作れるはずだ。私はこの案を将棋連盟に提案したいくらいだ。
そうだ書き終わったら将棋連盟に意見として送らせてもらおう。そのためにももう一つ説得力があるように意見を加えよう。
相撲界と較べて考えるべきだ。相撲は江戸時代に隆盛になった伝統芸能である。本来は神に捧げる神事として始まった。大きな石を持ち上げるというような神事があるように、人間の力のある姿を神様に見て頂こうという気持ちが原点であろう。
神話の世界では相撲で勝負を決めて国を譲ると言う話が古事記に書かれている。確かに神事だったのだ。全国村の鎮守様でも相撲の土俵があるところは多い。人間の力というものの神秘がそこにあった。綱引きが祭礼として残されていることと変わりがない。
しかし、その神事が江戸時代に興行に変る。「負け相撲」という芸が一世を風靡したことがあるという。面白いことだと思う。江戸時代の粋の文化である。負け方を堪能しようというのだ。見事に投げられる姿を一人相撲するのだ。
文化というものは勝者だけに意味があるのではない。敗者の美学を大切にするような奥深さがなければ文化とは言えない。その点将棋はなかなか素晴らしい精神を、今に伝えている。今回の竜王戦の挑戦者佐々木8段は全力で負ける姿を見せてくれた。
今の藤井7冠に正面から戦いを挑み、がっぷり組み上がり、さあどうなるのかという、場面を作
った。特に藤井7冠が長考に入った第6局の67手目、5六成り角引きの場面だ。天才が脳髄を絞りきるような勝負を行うのは、よほどの挑戦者の研究が必要なのだ。
った。特に藤井7冠が長考に入った第6局の67手目、5六成り角引きの場面だ。天才が脳髄を絞りきるような勝負を行うのは、よほどの挑戦者の研究が必要なのだ。
今回の竜王戦のレベルの高さはまさに頂点の戦いであった。佐々木8段の研究のすごさと、それを凌ぎきった藤井7冠も良かった。佐々木8段は何かをこの挑戦にかけていたように見えた。しかし、敗れてすがすがしかった。いつも思うのだが、感想戦の素晴らしさだ。これはもっと演出した方が良い。
コンピュター時代に、人間の脳髄の戦いのすさまじさを見せて貰えた。将棋界は、ものすごいものだと改めて感じた。藤井聡太という天才が現われ、その天才を正面から打ち負かそうという人間が登場している。人間は素晴らしいものだと、感服させられた。
この素晴らしさを、脚が痛いぐらいのことで、台無しにしてはならない。和服を着ないでも、もちろん着ても良いが。丁髷を結わなくても、結っていないか。将棋の興行的価値は高まっている。それはコンピュター革命に対して、冷静に正面から対した、羽生7冠の功績だと思う。
将棋は次の時代を開いた素晴らしい頭脳ゲームだと思う。今後その意味はますます高まるはずだ。是非とも素晴らしい将棋用座椅子を作り、見ても悪くない和室対局を考えて貰いたい。先ずは、ゲーミングチェアー座椅子で一度対局してみて貰いたい。