日本人と稲作

   



 田んぼが好きだ。見ているのも好きだし、絵を描くのも好きだ。田んぼを作ることには限りない興味がある。地形を見て、湧水を見て、どのように田んぼを作ると美しいか。そして、棚田を作る。そして栽培をする。試行錯誤を繰返し、手直しを続ける。そこにはいつか、調和した世界が表れる。

 日本人は縄文時代後期からお米を食べるようになった。3000年前に稲作が中国から日本に伝わる。稲作に関わることで、日本と言う瑞穂の国の国柄が出来てくる。お米を生産する技術を学び、食料を蓄えることが出来るようになる。日本列島に暮らしていた縄文人の人口が急速に増加して行く。

 栗などの栽培を始めていた縄文人ではあるが、狩猟採取的な生活から農業生産を始めることで、生活の様式が大きく変化を始める。人口増加するに伴い、縄文人は弥生人へと変貌して行く。暮らし方の変化は人間を大きく変えてしまうほどの力がある。

 水を引き田んぼを作ると言う集団的な労働から、集落が形成され集団の秩序が生まれる。小さな単位で暮らしていた人が、食糧を貯蔵できることになり、集落が大きなものになる。水田を作る先端技術が日本列島全体に広げられながら、稲作に適合した国作りが進められる。

 稲作農耕文化が形成されて行く。それが日本の国柄となり、稲作が日本人というものを変えて、戦前までの日本人を作り出した。縄文時代の日本人が、弥生人に変って行くのだが、その劇的な変貌は異民族では無いかと言われてきたほどの大きな違いが生まれる。

 今では人間の遺伝子の研究などから、多様な人々が交雑しながら、縄文人が変化をして弥生人になったとされている。稲作が暮らしを変化させたことで、人間の様相から、身体つきや人相骨格まで変化をさせる。渡来する人も多く居たのだろう。現代の多様な日本人が形成されたとみられる。日本人には外見上の違いが大きい。

 そもそも日本人はどこから来たかと言えば、10万年前のアフリカから始まるのだ。それが徐々に移動して、オーストラリアや東アジアまで5万年かかってたどり着く。その間様々な人類の交雑が起きているとされている。縄文人とオーストラリアの原住民は遺伝子分類では一番近いとされている。人の移動が読み取れる。

 3万何千年前に日本列島にたどり着き、その後も遅れて日本列島にやって来る人達も繰返しにいたのだろう。そうして交雑しながら、縄文文化という当時の世界最先端の文化を形成するようになる。それは日本列島が島国で有り、たどり着いたもう先のない場所だったと言うことがあるのだろう。

 幸い、暮らしやすい四季のある気候と言うことで、1万5千年に及ぶ安定した縄文文化を形成し、穏やかに暮らしていたようだ。何度もの大噴火を受け、一気に人口を減らした時期もあるが、それでも日本列島に住み着き、豊かな縄文文化を維持していた。縄文土器や土偶にそれが表れて居る。

 その縄文人の暮らす3000年前の日本に、稲作が中国から伝わってくる。中国で8000年前に長江流域で稲作が始まったとされていたが、最近の遺伝子ゲノムの解析研究では中国の珠江中流域で、稲の野生種はベトナム国境に近い中国広西チワン族自治区の南寧市付近にあったことが明らかにされた。ここは緯度的には石垣島と同じくらいのところにある。

 中国の珠江中流域で1万年前に、インディカ種もジャポニカ種も同じ物として発見され栽培が始まった事が確認された。実に興味深い。ジャポニカの誕生に続いて、東南アジアや南アジアの野生イネ系統とジャポニカと の交配によりインディカが生まれたことも判明した。

 「倒れにく い」、「実が落ちにくい」、「一斉に実る」といった栽培に適した野生系統のあるイネが選び出されて稲作がはじまり、やがてジャポニカ系統は単一系統由来のものとして固定される。珠江流域は熱帯や亜熱帯に属し、4月から9月の降水量は比較的豊富であるため、珠江は水量の多い時期が長い。

 春の終わりから初夏にかけての時期が最も降雨が集中する時期で、洪水もこの時期に集中する。 珠江は大河である。その河岸の増水と減衰が、伊根という植物の生育を作る。たぶん多年草化もしていたはずだ。気候的に稲が枯れない気温が通年ある。ここが長江発生説と大きく違う点。

 また インディカ系統は各地の野生イネ系統と交配しながら、アジア各地に広がっていった。この新しい発見は、ひこばえ農法をやりながら、両方の品種の違いの意味が、やっと栽培方法の違いとして理解できることになった。両者は同じものであり、違うものに変化したものだったのだ。

 話がお米の起源になってしまったが、このこともお米で出来た日本人としては重要な意味がある。お米を作ることで日本人らしくなった。そして稲作から離れた日本人は、その個性を失い始めている。人間が出来ると言うことは身体労働から生まれる。稲作を続けている間に、日本人の身体は稲作向きの身体になった。

 日本にはお米はどうやって来たのかということになる。いくつかの流れが、時間差で日本に渡来したと考えるのが自然だ。中国の中国広西チワン族自治区の南寧市から直接海を渡り、日本の八重山地域に到達したものもあったというのは想像しやすい、妄想かも知れない。石垣にはベトナムから来たという言い伝えがある。;

 中国の先住民族であるチワン族が野生種のイネを栽培していたのだ。マカオ香港の沖合を海流が東上して、八重山諸島に到達する一つの流れは想像できる。この海の道を通り、流れ着く人は居たはずだ。想像以上に海上の道は開けていたと考えた方が良い。フィリピンやさらに南に行った人も居るのだろう。

 本格的な水田農法としての日本への渡来は、弥生期に入ってからなのだろう。水田稲作の始まりである。この水田農法の先端技術を中国から学び、日本に普及した者の一人が天皇家ではないかと想像している。水を管理する技術が国を統治することにまで繋がって行く。

 農耕と言う産業革命が日本という国家を作り出したのだ。稲作農業の特徴は、共同作業と言うことになる。人数が揃えば生産性が上がる。水路や水田の開拓は多くの人足がなければ出来ない。収穫したお米の保存技術には高床式の倉庫を必要としただろう。お米の登場で人口は増加する。

 日本人は稲を作る人のことと言っても良い。イネ作りを止めた日本人は大切なその基になる確信を失った。そして、コンピュター革命に翻弄され、停滞に入った。どこへ向かうのかを見失っている。日本が再生するためには、どのように日々を暮らすのかという所を掴まなくてはならない。

 その一つの方角は、稲作をする暮らしである。すでに日本人である事を気付かないまま捨てようとしているのが、今の日本の姿だ。いつか、日本人は稲作をする人のことだと、気付く人が居るかもしれない。その時のためにのぼたん農園を続ける。


 

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