MVP大谷翔平選手

   



 大谷選手が大リーグで3度目のMVPを受賞した。長い大リーグの歴史の中でも傑出している一人だ。日本の若者にこういう素晴らしい人がいることを誇らしく思う。投手と打者をここまで両立させた選手はいない。あり得なと否定されていたことを、実現してしまったのだ。

 アメリカに行き、アメリカで出来たベースボールで成し遂げたことだ。そして、今度は怪我をして大手術をして投手が出来ないために、今年は指名打者に専念した。そうしたら54本塁打59盗塁である。すべてに傑出している。それを練習によって成し遂げてしまう。

 文句なしの選手だと思う。所がラジオを聞いていたら、大谷選手がなんとなく面白くないというコメントを放送していた。女性の方の声であった。誰だか分らなかったのだが、著作などもある有名な方らしかった。そのコメントを、何の文句があるのだろうとつい聞き耳を立てて聞いてしまった。

 あまりに完璧すぎで面白くないと言うことが基本だった。要するにひがみ根性らしいのだが、女性のためか、大谷選手の奥さんまであまりに立派で面白くないというようなことまで、語っていた。私など大谷選手が良い奥さんを貰い、選手に専念できることが実に良かったと思えたのだ。

 そうしていたら、朝日新聞にも同じ傾向の記事があった。大谷選手へのどこか割り切れない気持ちは、若い人ほど強いと言うことらしい。「嫉妬もあるんですが、なんというか、ダメなとこもあるけど、すごい能力あったりすると魅力ありますが、全部完璧過ぎると話として魅力ないというか。 マンガの主人公としたら、ライバルにはいても主人公にはなりえない感じじゃないですか? 天才すぎて共感できるとこがない。 わかってもらえないですかね。」

 こういう気持ちは想像は出来るが、「この、なんだと言う感じと言う感じ」は何か今の日本を反映しているような気がする。このことはもう数個し考えてみた方が良いような気がした。健全でないものが社会の根底に溜まり始めているようだ。

 日本が落ち込み始めて、未来が見えない。格差社会に入ったと言うことではないだろうか。格差社会の審理状況が見えるような気がしてきた。戦争だって起こるかも知れない。大災害は間違いなくありそうだ。エネルギー危機も食糧危機も近づいている。

 この日本の状況に対して、やさしい若い人であれば強い不安を抱えた日常ではないだろうか。私の歳になれば、今更と言うことで大体諦めがついている。このどうしようもないはずの未来に対して、世界に対して正面から立ち向かい、完璧に自分というものをやり遂げている大谷選手が面白くない気分になる。と考えられないだろうか。

 誰もが認めざる得ない人がいることで、自分の不十分さを自覚させられる。例えば日本の学術分野が偏向し、しかも財政的にも不十分、だから自分が精一杯やっても学術的結果を出せない。研究室にやっと残ったのだが、何時大学から追い出されるかも知れない。

 と言うような状況のせいにして、憤懣やるせない気分でいる。そのところへアメリカに行って研究生活をして、ノーベル賞を貰う若い日本人がいたらどうだろうか。なんとなく翻って自分のことを考えてしまう。大学の研究室に残り助手生活に上り詰めること自体が、すごい立派なことにもかかわらず。

 あらゆる分野でこういうことが起きていると想像した方が良い。若い人達は我々年代と較べて確かに大変だと思う。それは格差社会が原因している。成功した人と自分を比較してしまうのだ。そして、自分が成功者の湧くには入れないことが見えてしまう。

 しかし、翻って自給農業を考えれば、実に良い時代にあると思う。自給生活においては、昔も今もその肉体的苦労は何も変らない。特に化石燃料を使わない自給生活をしていた私にしてみれば、江戸時代の暮らしも今の時点での暮らしも同じ。

 今の社会は自給するための農地は、ほぼ誰でも借りられる。ただの場合さえ増えている。自治体まで応援してくれる。場所によっては家までほぼ無償で借りられる。こんな良い時代は日本の過去に一度もなかった好条件である。何故こんな好条件になるかと言えば、地方が過疎になり消滅しかかっているからだ。

 自分の方角次第なのだ。野球をやって、一流になりたいという競争はそれは厳しいものだろう。その競争を止めれば草野球は楽しいのだ。楽しい方で良いじゃない。と言うのが自給農業である。職業としての農業から降りた、自給農業に必要なことは覚悟である。自分の作ったもの以外は食べないという覚悟である。

 この覚悟がなければ、自給農業は面白くならない。私の場合は5年後に実現すると決めて始めた。そして達成した。命がけだから面白かったのだ。出来るかどうかなど誰にも分らない。まさに未知の冒険である。冒険の日々ほど楽しいものはない。大谷選手は未知の世界の冒険に乗り出しているのだ。

 冒険は何でも良い。そうは言っても命をかけるのだから、それが社会的に価値のあることでなければ面白くない。命がけだからと言って、賭博に命がけの人はいくらでもいる。ゲームに熱中している人もわんさかいる。しかし、そんなことは冒険でも何でもないのだ。

 本当の冒険は反社会的なものではないはずだ。絵を描くというのもぎりぎりのものだ。絵の社会的意味は失われている。装飾商品というものは藝術としての絵画とは違う。特に私絵画は社会的な意味を捨てた物だ。自分自身のためだけに描く絵のことだ。

 しかし、その自分だけのものと決めたことではあって、描かれた絵は別のことだ。場合によっては人に喜びをもたらすかも知れない。癒やしになるかも知れない。希望を灯すかも知れない。それは目的ではないが、未来への願いである。何百年先の、そういう一人のために絵はあれば良いと思う。記録を残しておくことは誰にでも出来る。そう考えるのも少し卑しい気もするのだが。

 大谷選手に私は強く励まされる。あの活躍する姿が、自分もやれるだけはやってやると思う。大谷選手は世界でまれに見る才能の持ち主である。そして、それ以上の努力家でもある。高校生の時から、今の身体の変化を見ると、どれだけの訓練をしているのかと思う。

 大谷選手を思うと、自分の努力などまだまだ知れたものだと思う。それはわかってはいるが、自分としては精一杯努力して行こうと言う気になる。絵を描くこと、自給農業技術を完成すること、一年一年の目的ははっきりしている。残された時間この二つに邁進したい。

 

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