絵に習うことはない。

   



 リーダーのわかばが種付けのために、出かけたので今は桜とのぼたんの2頭。人の後を着いてくる。

 絵を描くためには頭の中で、描く絵を想像できなければ絵は描けない。だから子供にお母さんの顔を描いて下さいと言っても、母親の顔を想像して描くことは出来ない。リンゴを見て、リンゴを描くこととはまるで違うことになる。お母さんを描く子供の絵は、一度知識に置き換えて描くのだ。例えば眼鏡をかけているとか、頭はくるくるパーマであるとか、太ってまん丸であるとか。言葉にすればなんとか描ける。

 図像としての母親を想像できて、その頭の中にある図像を写し取ることは、幼稚園児では出来ない。たぶん小学校三年生ぐらいまでは出来ない。だから子供は顔と言えば、へのへのもへじ的に、マルを描いて眼をヨコに二つ描くと言うように、実際の顔では無く、図像として出来上がっている図を書くことから始まる。

 いわば、顔を書くであって、描くではない。書写のようなものだ。日本画には画家になってもそのような絵が多数ある。朱竹のような、出来上がった図があってそれを、描く決まった筆法があり、手順でなぞるだけで、竹らしい姿ができてくると言う方法である。中国画は今でも大半がそれである。

 正月の掛け軸と言うことで、鶴亀図とか。松に日の出。海越しの富士。翁媼図。決まった図柄を描くことが、伝統的な日本画の描き方で、この図を徒弟制度の職人と同じように、先生に教わると言うことだったのだ。そういう装飾絵画が、絵師の仕事であったわけで、まあ今の日本の絵画にもその伝統が息づいている。

 その意味では、庶民の絵画であった、浮世絵は少し違う。面白い、新しい意匠が人気を集めたのだ。次々に過去にないものが現れる。そこには従来の日本画にはなかった。絵画の本流に触れるものがあったのだ。庶民文化が、貴族文化を凌駕した江戸時代のすごさ。

 縁日にでる大道芸のような、昇り龍の一筆書きというのもあった。子供の頃お祭りには必ず出ていたもので、その描き方を家でも遊びで良くやっていた。今でもあの龍図の寅さんはどこかにいるのだろうか。筆を前後に揺すりながら進めると、龍のうろこに見えるのだ。指でパチッと目を入れる。お絵かき遊びと言うことで結構やっていた。

 絵を描くと言うことと、図を再現すると言うことは全く異なることなのだ。アルタミラの牛の図は絵であり、牛の記号では無い。縄文の土偶は造形である。子供の頃に絵を習おうとしたときに、図を写すことから始めるとすれば、大きな間違いをすることになる。絵を描くとは、見えている世界を再現するのではない。紙の上に新しい世界を作ると言うことなのだ。

 明治期の図画教育は、まさに写画である。教科書に見本の絵があり、それを写すことが図画の時間だったのだ。書道の時間は書写である。見本の文字を真似をして写すのだ。はいこのように筆は入れて、横へまっすぐ引く線の速度はこのくらい。止めは力を込めてと。絵画はそんなことを覚えれば、自分というものが遠のくばかりである。

 藝術としての書ではなく。代書屋さんの看板文字である。それらしくだけの物にすぎない。絵をかくと言うことが、何かの図を真似を覚えることだった。その伝統は根強く今にも続いている。だから絵を描くというとデッサンをすることが基礎と言うことになる。日本美術の衰退の原因はここにある。

 デッサンは美術学校の受験の基礎であって、絵描きになる道を誤らせている。上手に写し取る能力は、確かに商品絵画の製造に関わるなら意味があるが、絵を描く為には何の意味も無い。むしろ芸術を志すとすれば、害になることの方が多い。芸術としての絵画は写すのではなく、作り出すものなのだ。

 お母さんの顔を描いてください。幼稚園でもやる事かも知れないが、これはなかなか奥が深い話なのだ。それを言われたときに、途方に暮れてしまった。お母さんを絵に描くことなど出来るはずがないと思ったのだ。いわゆる顔の形の図を書いてもお母さんには成らない。

 どうしたら良いのか、全く考えつかなかった。舟を描くと言っても、舟の図の書き方は分かっていて、手順通り書けばそれらしく舟になる事の方が不思議だったのだ。それは、見たことのある舟とはまるで違うが、舟の図ではある。この違いが分からないのに、お母さんと言われても、それは立体的な存在で生きている。どうすれば図になるかはとうてい分からなかった。

 この絵を描く要領は私にはなかなか突破できなかった。所が要領の良い子供も居るもので、こんな風に顔は描けば良いんだよと、手順を示してくれる子が居た。なるほど、そうかそうやれば顔らしきもになると、気がついてやり方を真似てしまって安易な解決をした。

 あのときは重要な分岐点だった。お母さんというものを絵に描けるかという命題は、実は今でもある。確かに、絶対的な愛情を持って面倒を見てくれた存在である。あの感じを絵に描くけるかと言えば、これは大きな命題になる。聖母マリア像もそうなのかも知れない。

 金沢大学の美術の授業は光風会の北浜淳先生だった。この人に教わったことは、「せめて絵の具を混ぜるなら、よく混ぜろ。」と言うことだった。この言
葉が頭に残り、50歳ぐらいまで悪影響が残っていた。あるとき読んだ中川一政の言葉に、絵の具はあまり混ぜないで塗るようにした。と書いてあり呪縛が解けた。

 絵の描き方は自分が発明するか、発見するかするしかないものなのだ。だから石膏デッサンをするというような、馬鹿げたことは避けた方が良い。それが上手に出来ることが、絵を描く基礎ではない。下手が絵の内。上手いは絵の外。藝術としての絵は生み出すもので上手に写すものではない。

 明治時代がいかにだめな時代かが、美術の授業を考えてみても分かる。学校教育が、人間教育になるのは、大正自由教育が始まってからのことだ。自由学園の美術教師だった山本鼎によって人間教育としての絵画が始まる。私の叔父は山本鼎の授業を受けていたので、その様子を話してくれた。

 藝術は人間の表現である。その人間がどこまで深い世界を感じているかにかかっている。言葉にすれば世界観の表現なのだ。幼稚園の時のように、お母さんを描いてくださいということは、子供には実は、それはあなたの世界観を描いてください。と言うことなのだ。
 
 言葉には書ききれない世界観も、絵なら表現できるかも知れない。これが藝術としての絵画の目標だと考えている。薔薇や富士山の図を、手順道理に巧みに写すものではないのだ。そういうつまらないことが絵に混ざれば、どんどん自分の世界観から遠ざかることになる。

 

 - 水彩画