新しい「山の人」に成る。

   



 わかばが留守なので、なんとなく物足りないサクラとのぼたん。

  山の人という言葉は柳田国男の民俗学の中に出てくる。「山の人」とは「原遊動民」と考えて良い。権力から離れた流浪の民である。定住をしないで移動しながら暮らしている人々。国家から離れた自由な集団と考えて良い。これからの時代に、新しい山の人が生きる余地が生まれるのではないだろうか。

 90歳まで生きていると、全国の自治体の半数が消滅しているらしい。地方社会が消えてゆき、どんな社会になっているのだろうか。人口減少から起こる地方消滅は困った問題と言われているが、案外に良い社会のように思う。私のように、山の中で自給自足を体験したものとしては、ずいぶん条件が良くなりそうに見えてくる。

 例えば、新しく開墾して畑を作る場合、山に戻っているにしても、その昔は農地であったところの方が、ずっと農地に戻すことが簡単なのだ。この先、山は荒れ果ててゆくのだろう。イノシシや、クマや、鹿などの野生動物も増えるはずだ。猟をすれば、売ることも出来るだろうし、案外食べ物には苦労しないのかもしれない。

 山菜だってとる人がいなくなれば、いくらでも取れるだろう。採種生活中心で、後は田んぼと狭い畑があれば、何とか食糧の自給自足は出来るはずだ。そこまで覚悟すれば、何も怖いことはない。石垣島でも人口が減少すれば医療は限界が来るかもしれないが、ITを利用した医療が始まるだろう。

 生まれたのは山梨県の藤垈の外れの、山の中にある向昌院という曹洞宗の寺であった。今はいとこが住職をしている。同じ藤垈にあるお隣のお寺は、今では誰も住まなくなり、崩れ落ちたままである。藤垈も私が生まれたころは、外地からの引揚者が沢山いて、人口は一番多かった時期ではないかと思われる。

 日本中の山村や離島の戦後は、そういうところから始まったのだ。明治以降人口が急増して、政府は移民政策を行った。実際は棄民政策を行った。日本の社会が急増する人口を支えきれない状態になった。農家では後継者となる長男以外は家から出てゆく以外なかった。

 橋田寿賀子作の「おしん」の世界が明治の山村の現実だったのだ。明治政府はとんでもない方角に日本を進めた。日本の歴史の中で、最も農民が飢餓に苦しめられた時代だ。先進国に追いつくという発想しかできなかったところに、限界があった。日本は明治帝国主義の競争心で、江戸時代まであった日本らしい良いものを捨てた。

 敗戦後、外地に出て行った人々が日本に引き揚げて、山村や離島に戻り暮らす以外になかった。都会は焼け野原だったのだ。いくらかでも平らな場所があれば、段々畑にされて、藤垈の周囲の山も開墾畑が広がっていった。占領軍が行った農地解放は大きな希望だった。開墾をすれば自分の農地が広げられる制度もあった。

 人海戦術で里山の開墾が進められた。残された里山は薪炭の供給地で、地域のエネルギー源になっていった。あの開墾から、戦後の民主主義社会が始まる。何故か、青年団の人たちの、ばかに明るい、希望に満ちた空気を思い出す。青年団活動や生活改善クラブのお母さん達の取り組み。

 何か新しい時代への期待が、敗戦を忘れさせてくれたのだろう。映画上映会やお祭りの開催の盛り上がりは、山の中に特別な賑わいが生まれて、まばゆい夢のような出来事であった。今では荒れ果ててしまった河原に何百人の人が集まったのかと、想像すら難しいことだ。

 頑張って働けば誰でも豊かになれる気がした。未来に豊かな暮らしが待っている希望のある社会。努力して農産物を作れば、農業で豊かになれる山村が、一時だけ出現したのだ。開墾しても、充分な農地が手に入らないものは、街に働きに出た。子供が街に働きに出た家は、忽ちに裕福になってゆく。

 むしろ農地が少なかった家の方が、職業転換が早くできたのだ。土建業や建設業などを中心に様々な仕事が、人手を求めていた。村には自動車を買う家まで現れた。村に小さな工場も出来て、そこに働きに行く人もたくさんいた。養鶏を始める農家も現れた。

 戦後の復興期から、高度成長期に入る。もはや戦後ではないと言われたのが、敗戦から10年の1956年である。それからの急速な変化は地方の様子も、都会の様子も、一変していった。1970年までである。万博が開催された年だ。高度成長の方向が危ういものに変わってゆき、この流れは公害を生み、最後についに原発事故に至る。又間違ってしまった。

 あれから、半世紀が経過した。あの急激に肥大化した地方社会が、維持が出来なくなり、消えて行こうとしている。たぶん問題は人間の変貌にあるのだ。戦後の民主主義社会の希望に満ちた社会の中で、頑張れば何とかなると信じて、ひたすら働いたあの人たちであれば、今の地方社会は何とも魅力的に見えるはずだ。

 一番の違いは、今の社会は農地が放棄され、そこで農業をやろうと思えば、手に入ることだ。あの頃の日本人は働く農地がないというので、海外に出て行かざる得なかったのだ。誰だって日本で働きたかったにちがいない。あの頃の青年であれば、希望に満ちて日本の地方の中山間地で、頑張ることだろう。

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  日本の問題は、人間の問題なのだ。病院がないから地方社会では暮らせない。学校がないから地方では暮らせない。ないものを数えている人間では、地方でのこの先生活を立てることは難しいだろう。あるものを見れば、豊かな土地が目の前にある。これほどの自分の力で生きてゆくには、良い条件はないだろう。

 社会はIT革命で大きく変わるはずだ。産業革命で世界が変わったように、コンピュター社会になることで、社会の在り様は激変する。今ある職業の半分は無くなると言われている。どんな職業が残るかなどと、つまらない想像をするより、自分らしく生きることを考えるべきだ。

 問題になるのは人間がどう生きるのかという事だけだ。原点にあるものは「食べもを作り生きる。」ここに立ち戻ることだと思う。それが出来れば何も怖れることはない。都会での暮らしよりも、中山間地の暮らしの方が、よほど安全な暮らしだろう。

 現代人はビニールハウスで育った軟弱野菜だ。自然の中で生きることをためらう。あらためて日本の中山間地をみれば、これほど希望のある場所はない。私は今石垣島の崎枝という場所で、3,6haの牧場の跡地を開墾をして、自給の農場を作ろうとしている。借地料は年1反7500円である。

 耕していて、どれほど小田原の農地が恵まれていたかと思う。小田原でも反7500円ならば、貸してくれるところはあるだろう。いや、もっと安く貸してくれる農地があるかもしれない。中山間地であれば、無償で使える場所すらないとは言えない。そうして誘致している地域もあるのだ。

 人間次第だと思う。ビニールハウス育ちが、野外生活に耐えられるかである。その強い肉体があるか。その気力があるか。その捨て身があるか。結局、開墾途上で死んでも構わないと思える覚悟があるか。自分で作ったもの以外は食べないという覚悟を持てるかである。大げさに言えばで、本当は何気なくやればいいことだ。

 35ねんまえ5年以内に自給生活を成し遂げると覚悟をして始めた。そして達成した。その自給自足の安心立命が何より良かった。自己管理をして病気にはならない決意をした。それでも病気になれば死ぬのも仕方がない。運命を受け入れる覚悟だ。幸いあれ以来一度も病気はない。

 そして、一人の自給が出来たら、今度はみんなの自給だ。自分が確立した自給技術をみんなの自給技術にして行く。そうすれば、一人の自給は100坪の土地と、1時間の労働で可能になる。あとの時間は自分の目的に向い生きて行けばいい。みんなの連携が全国に緩やかに広がる。

 まず、便利さの社会を捨てることから始まる。それは精神主義でもないし、宗教でもない。現代の普通の暮らしをしながら、自給生活をしようとすれば、社会に引きづり込まれるのだ。先ずは一時代戻る覚悟ですべてを捨てて、やり始める。

 これから中山間地で暮そうと考えるものに必要なものは、科学的な思考だ。農業高校の教科書を買って読むと良い。当たり前の農業の知識から始めることだ。趣味ではないのだ。命がけのことだ。カリスマの自然農法などにはまらないことだ。趣味の農業に引きづられないことだ。まず食糧自給から。

 新しい「山の人」は軽トラアトリエで移動しているぐらいのイメージである。縄文人のような暮らしをしているわけではない。自給自足をしながら、緩やかな連携を取り合う、同族がいる。その同族間で交流を持ちながらアトリエカーでふと訪ねてきて、技術交流をする。そんな山の人だ。


 

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