トヨタまで偽装していた。
日本の一番の大企業のトヨタまで、データー偽装をしていた。トヨタ自動車は、ディーゼルエンジンで認証取得の不正があったとして、このエンジンの供給を受ける国内向けの6車種を含む合わせて10車種の出荷を停止することを決めた。ランドクルーザーとか、ハイエースディゼル車なのだろう。
自動車業界の偽装の多発には。日本人がここまで腐ってしまったのか。誇りを失った国になったのかのため息が出る。その場をしのげればと、金になれば何でもやる人間になった。バレないで儲かれば正しいと思い込んでいる。次々に自動車会社の不正が出てきているが、先日は製薬会社の不正が報道されていた。
日本人の劣化と言うことを考えなければ成らないのだ。認証制度のない分野では、企業倫理などそもそも無いに等しいのかも知れない。情けないことだが、きっと、あらゆる分野で同様のことが行われている。国の認証があるから、表面化したが、認証のない分野のもの作りでは、さらに根深い不正やごまかしが、蔓延しているに違いない。
何か昔の中国のようになってきた。25年前の中国では不正が横行していた。有機農業基準の話を日本で使節団の人に説明したとき、盛んにどうやって不正をチェックしているのかの質問が、一番多く出ていた。当時の日本は、農業者の倫理観で何とかなっていたのだが。今大丈夫だろうか。
農業分野だって少しも変らない。バレなければ何でもしていると考えた方が近い。農業はバレにくい。生産物自体の検査というものが行われたことがない。農薬を使わないと行ったところで、土壌の汚染があれば、生産物は汚染されている。そうした生産物の検査の仕組みがない。
政治家のみんなが行っていたパー券キックバック方式でも、バレたとしても額が少なければ修正申告すれば済むことだとしている。このバレなければかまわない精神がまさに日本人なのだ。要領よくごまかして金儲けする人間が、有能な人間だと思い込んでいる。倫理観などこれっぽっちもない。
世の中で競争に勝利して、目立つ人間は、どの分野でも多かれ少なかれ、腐った人間だと考えて、大きくははずれない社会になった。恐ろしいことだ。行きすぎた能力主義の結果が、金権主義に落ち込んだのだ。資本主義の末期の姿なのだろう。人間の正義感とか倫理を問うなど、ちゃんちゃらおかしいという世界になった。
人間は繰返し、こうしたひどい時代を経験してきたのだろう。しかし、人間は世界を簡単に滅ぼしてしまうほどの力を持ってしまった。今度の腐敗は怖い。資本主義の行き詰まりは、世界を崩壊させると言うことなのかもしれない。資本主義を克服できる世界は来ないのかも知れない。
経済が人間をだめにした。それは絵の世界を見ても分かる。文化勲章や芸術院会員の絵が、どんなものであるか見てみれば日本人の劣化が分かる。過去と較べれば、その劣化は明かである。藝術も商品として扱われて、劣化した。お金になる絵を求めて妙な卑しい絵が蔓延した。
この精神の腐り始めた世界で、どのように生きるかである。他に求めず、他と競べず、自己に問う以外にない。「連帯を求めて孤立を恐れず」谷川雁。美術部の壁にも、誰かが東大全共闘を真似をして書いてあった。あの頃が倫理を失う境目で、社会全体の腐敗が始まったのだ。
この時代に残された私に出来ることは、体力の続く限りのぼたん農園を作り上げること。そして、絵を描ける限り、絵を描いて行く。それ以外にやれることもない。その意味も世界の現状を見れば空しくなるようなものだが、結局の所、道元禅師の示されたように、生を極める以外にやれることはない。
どんな時代であってもそのことには変わりがない。トヨタまで偽装していた、日本の今に生きている。トヨタの偽装の責任は、一見随分遠くに生きている私にもある。少なくとも被害者であると同時に加害者である、日本人のすべてに責任がある。
政治家の腐敗が、さらされたことは一見大衆は批判者側に立っているが、実は腐敗政治家を作り出したのは、その大衆なのだ。ある意味では、大衆は腐敗政治家の生みの親なのだ。恥さらしなのは政治家であると同時に、こんな政治家を生み出した、日本人すべてが恥さらしなのだ。
自分だけは高みの見物とは行かない。過去の戦争責任が今生きている日本の全国民にあるように、トヨタの偽装に象徴される、腐りきった守銭奴の日本人とは、自らのことなのだ。少なくとも自分もそのはずれに連なってしまっている。残念なことに、考えれば考えるほど、そう思えてくる。
能力主義と言う最後の差別思想をどのように克服できるかである。能力のある勝ち抜いた人達が、トヨタを作っているのだろう。勝ち抜いた有能な人達が、国会議員になるのだろう。しかし、その勝ち抜いた人達が、これほどに倫理観を失ってしまっている。しかも恥じを感ぜず、堂々と世渡りをしている。
大半の人間は繰返し、能力競争に敗れている。負けることになれてしまい、負けていることにすら気付かなくなっている。勝者は敗者を必要としているのだ。競争に参加したく無い、実は参加などしていない大半の人間を、無理矢理競争にひきづりだそうとしているのだ。
そして階層社会を作り出し、勝者は自己満足をしているのだろう。いつも得意満面だったトヨタの会長が、打ちひしがれた姿でテレビに現われた。よほどの衝撃だったのだろう。しかし、それも次に勝つために必要な、戦略としての謝罪に違いない。操業の原点に立ち戻り改革をするそうだが。
トヨタの倫理の回復が出来るだろうか。絶対にバレないことでも、偽装はしない人間に成れるのか。その結果、出世できないでも耐えられるだろうか。無能扱いされても、耐えられるだろうか。トヨタだけの問題ではなく、日本人全員に問われていることだ。
政治家達のあの傲慢なままの、何が悪いのだと言わんばかりの態度は、日本人に倫理は戻らない。日本人は大切な物を失ってしまった。それを絶望的に物語っている。政治家は政治家像を演じている人達だから、政治家以外の役を演ずることが出来ないのだ。
谷川弥一衆院議員 はパー券キックバックはあったかと食い下がる報道陣に問われて、「君たちは頭悪いね。」と言い放った。答えないでも不正はあるに決まっていると言うことだ。あの傲慢な態度が、つまり衆議院議員様のお偉い姿なのだ。
頭の悪いのは谷川議員その人だろう。テレビカメラの前で、この発言がどういう結果になるかさえ分からないのだ。傲慢な勝利者の国会議員を演じてきた間に、その役を演ずる内に、頭はいらなくなったのだろう。まあどう演じようが、どの役割を担おうが、日本人全員がこのひどい社会を作り上げているのだから、確かに君たちは頭が悪いのだ。
ここまで来てしまえば、出来ることはただ一つだ。自民党に投票しないことだ。後のことは抜きにして、ともかく自民党に投票しない。革命とはそういう物だ。革命的改革だ。それでも車に乗らないわけにゆかない。自分も悪党の一人なのだ。だから車に乗っているのだ。責任は誰にもある。
そして、他者がどうであるかは別にして、自分の倫理を作る以外にない。競争から降りることだ。そもそも競争に加わりたくもないのに、その他大勢の敗者の一群に入れられている。御免被りたい。この腐った社会の競争から降りた我々こそ、次の社会の希望だ。