自給農業の原理

   



 あしがら農の会は市民が行う自給農業の会である。今始めた「のぼたん農園」も市民が行う自給農業の会である。35年前に農の会を始めた時に、「地場・旬・自給」を会の目的にした。山北で杉林を開墾をして、食料自給が達成できたときに、一人の自給から、みんなの自給に広げてゆくことを考えた。一人100坪毎日1時間の農業である。

 「地場」という意味は、食べ物の地域主義でる。これから食糧が不足する時代に、重要な課題になると考えたからだ。国は食料など輸入すれば良いという考えのため、何年経っても食糧自給率は38%を抜け出すことができないでいる。本当の安心のためには、自分でやるしかない。

 「旬」を掲げたのは、時季外れのものを作ることは、化石燃料の無駄であり、適期適作が一番良い食べ物が作れる、という当たり前の事である。満作の作物が一番良い食料になると考えている。化学肥料や農薬を使い、ハウス栽培では、満作の作物にはならないと考えている。

 「自給」は日本の農政の状況では、農業は経営が出来ない。農家は減少し農地は放棄が進む。大規模農家だけが残り、経営不利な農地は放棄される。日本の中山間地の農地は経営不利な農地ばかりだから、自給的な農業を行う市民がその農地を利用することになる。と予測した。

 35年経ち、政府は農業に関して、有効な手立てを出すことが出来ないまま、いつの間にか大型農業と、スマート農業だけを推進するようになった。新規就農も奨励はされ、補助金も出されているが、一向にその効果は上がらない。普通の農家では経営が出来ないのだから、5年間の補助金ぐらいで農家は増えるはずもない。

 しかし、中山間地に増えるだろうと考えていた、自給農業も広がるというほどではない。興味を持つ人は以前よりも多いのだが、農作業に耐える心身がすでに日本人には失われたようだ。作物を育てる能力は、簡単な物ではない。百姓の観察力は、一代では身につかないほど奥が深い。百姓の手入れ能力は神の手と言えるようなものだ。

 絵を描いているので、植物の色の変化に見分ける力は、昔の百姓並ではないかと思う。色の変化を見て、植物の調子を見分けている。今何をするべきかがわからなければ、植物を満作に育てることはできない。満作の作物こそ、人間を健康にする作物だ。

 日光の季節変動様子、風の匂い。すべてが作物に影響してくる。それを予測して、最善の栽培を目指して対応するのが自給農業である。農業を通して、自然を感ずる。自然を自分の身体感じて、自分の体力で対応する。手入れをする。この能力を高めるのが自給農業である。

 その意味では大規模農業とはまったく性質が違うものだ。IT 農業などと言うが、機械任せにして、人間の能力の方を衰退させてしまうものとは意味が異なる。人間が育たなければ、作物が出来ても意味が無い。目的は自給の農作業によって自らを育てることに意味があるのだ。

 食料という生命を維持する根源となるものを、自分の心身で作り出す。その意味を身体で感じることで、十分に生きると言うことがどういうことかを自覚する。自給農業が食料生産という目的の奧に、人間が生きて、死んでいく事の意味を自覚することに成らなければ、おもしろくない。

 人間が育たない限り、良い自給農業は出来ない。作る人がまともな人間力を思った人でなければ、作物は満作にはならない。自給農業者は粘り強く耕作が出来る身体と、柔軟精神と、深い洞察力、がなければできない。草一つどうすれば良いかは作物によって違う。それを観察によって身につけられる人でなければ、自給農業は難しい。

 頭で組み立てた農法では実際の農地ではほとんど役に立たない。農地も違うし、気候も違う。水も違う。すべてが違うのだから、自給農業は常に特殊解を探さなければならない。雨が降らないとしても、食べるものを確保しなければならない。買ってくれば良いという訳にはいかないのが、自給農業の姿勢である。

 自給農は自分で作った食べ物以外は食べないと覚悟を決めたときに、本物になる。出来ても出来なくても生活には関係がないと言うことでは、到底自給農の継続は出来ない。趣味の園芸である。趣味の農業では深いものにはなり得ない。農業が遊びのうちは人間が育つことがない。必死により生まれる観察眼が育たない。

 自給農は人間が育つ為の一つの生き方なのだ。より本質的な生きる喜びを知るためには、覚悟を持って作物にあたらなければ、得るものも少ない。作物はそれだけの教材である。自然界のすべての結果が作物に現われている。満作の作物を作れる能力を磨かなければならない。

 現代の作物は化学肥料と農薬を前提にして、改良が進められている。そうした作物を自家採取を繰り返しながら、自給農業向きの品種に変えてゆかなければならない。本来の古い品種を探すということもあるが、温暖化に対応できないとか、耐病性などに問題がある場合が多い。

 現代の品種の長所を生かしながら、自分の品種に選抜してゆくことができる。この自家採取には、作物を見る目がなければならない。よくできたものを残すという選択だけではだめなのだ。普通の作物の中の満作のものを選び出す目が必要
だ。

 特によくできているということは、交雑しているかもしれない。あるいは変異している可能性もある。交雑したもの、変異したものを種もみにすれば、新しい品種になるかもしれないが、今まで持っていた長所を失うかもしれない。自給農業の基本は当たり前が一番なのだ。
 
 自給農業は自分の身体に合うものを探すことになる。おいしいは重要な判別ではあるが、おいしいを感じる自らが歪んでいたら、良い食べ物を選択できない。美味しいものが自分に合っているという、自分を育たてなければならない。自分の体質にあった作物を食べることが一番の健康である。

 自給農業を行うことで、人間が磨かれて行く。自給農業は自分が食べる食料を作る農業である。それぞれの状況に応じて、その形は変るのだろうが、私の体験した自給農業は、100坪の土地で一日1時間働き、食料を得る事ができるものであった。

 その技術は命がけで無ければ、身につけることは出来ないだろう。そこで挫折してしまう人を沢山見てきた。半農半Xを目指した人達の多くは、自給を達成できなかった。自給農業の厳しさを乗り越える農業技術を持つことができない人が多かった。

 失敗した人の多くはこだわりが強くて、思い込みにとらわれてしまい、自分の感性が育たない人に見えた。柔軟で、科学的な思考の出来る人でなければ、自給農は達成が出来ない。自給農の技術は、誰にでも再現できるものである。人間は100坪の土地で、1時間働けば、食糧自給が出来る。

 - 楽観農園