稲の多年草栽培は農業なのか

   



『稲の多年草化栽培』 ~ 小規模自給農への新たな道 著者: 小川誠 
目次を掲載させてもらう。目次を見ると読まないが、意味が半分は分かる。

目次 第1章 なぜ耕すのか、なぜ耕さないのか   
第2章 不耕起・冬期湛水の米作り  
第3章 稲の多年草化栽培への道筋  
第4章 稲の多年草化栽培  
第5章 なぜ稲は多年草化したのか  
第6章「稲の多年草化栽培」の具体的な栽培方法 
第7章 和み農  
第8章 今後の課題と展開  

 最近、稲の多年草栽培に多くの人に興味を持たれている。稲の一部が再生してくると言うことは、相模原でも無いとは言えない。しかし、全部が冬を越すはずがない。一部だけ再生したイネを、分けて、再生しなかった場所に田植えをして行くという事になるのだろう。

 農業にはならない気がする。最後に書かれている。「農家が認めるか。」とあるが、自給農を35年開墾から始めて行ってきた体験者として、農地をその様に使っていいものとは思えない。自給の為に農地を利用させていただくものは、農地に敬意を払い、甘い気持ちで使ってはいけない。
 自給農の節度は、自分が作った作物だけで命を繋ぐ覚悟である。一般的に反収は2俵ぐらいと少ないと聞いた。しかも、再生することもあれば、しないこともある。穂刈りで実った部分を収穫をする。バラバラに実るので、出来た穂をから順次刈り取る。どう考えても手間ばかりかかり、生産性が低すぎる。

 この農法で始めたものは、収穫がないときは購入すればいいという考えなのだろうか。足りなければ買えばいいという自給農は遊びになりがちだ。本気で農業を行う事で、初めて得られる哲学が自給農の世界観だ。
 問題は、この再生稲栽培を農業の一種だとして、間違った情報に基づき、農業を始める人が居る。一度稲を植えれば、後はほったらかしで、毎年イネが再生して芽を出すかのように受け止めている人がかなりいる。そうした認識で新規就農をしてしまう人さえいる。これは繰り返しある、自然の農の主張の仕方の間違えである。自らの限界をまず示す必要がある。

 農地は人類共有の大切な物だ。全力で生産性を高めることが、農地に対して真摯に向かい合うと言うことだと考えている。妙な観念で、再生してきたイネには不思議な力があり、そのお米を食べると体の治癒能力が高まる。などとなると、これはもうエセ宗教というか、似非科学という事になる。

 農地が放棄される時代にあっても、農地に対して遊び半分でたいする姿勢はあってはならない。収穫という結果の伴わないものを農業とは言えない。いくら何でも反収2,3俵で農法を名乗るのは間違っている。これを素晴らしいもの持ち上げる、農業ファーンの存在も危険な要素である。

 そのそも、叢生栽培も、不耕起栽培も、だめだとは言わないが、一般の農業の半分位収穫が安定してあるのでなければ、農業とは言えないし、農法とも言えないものだ。収穫が少なすぎるものは、農業として継続が出来ない。そういう自然農法を自称する人を沢山見てきた。

 おかしな意味で農業系の教祖的になり、そのお布施の類いで生活するような人間を、認める気には到底ならない。目次には何となくその怪しさが漂う。またそうしたエセ農業を支持する信者達も不安な世界の中で増えている。健全な農業を育てる科学的な精神がない。この点あえて厳しく書いておきたい。

 多くのそういうエセ農業の信奉者が、就農し、忽ちに放棄した事例を山ほど見てきた。信奉者を生み出した、エセ農業教祖を許せない気持ちで見てきた。折角農業が好きになり、始めて見たのことは素晴らしい。所がおかしな農法に洗脳されていたが為に、挫折して行く。

 農業技術は、安定した再現性がなければならない。最小限の労働で、最大限の収穫を上げることが目標である。この最小限の労働を、自然農法は、耕さないし、草も取らない。何もしないで収穫があると、思い込んでしまう。それなら私でもできるという事で始める。これは間違えである。

 草も取らないで良い。土壌を耕さないで良い。森の姿を見てみろ。あの何もしない調和が一番なのだ。大抵はこういうことを言う。森は何万年かけてその豊かな土壌を作り出しているのだ。農業を森に例えるのは、夢があっていいが、科学的な目を曇らせている。

 自然農法は手がかからないと言うことは、間違った理解だ。草を取り、耕した方がはるかに省力的なのだ。だから農家は機械を使い除草剤を使う。草を取らないで、コントロールしながら、その草の中で作物を作るためには、作物に有効な草を生やさなければならない。実に困難なことになる。

 耕さないで作物を植えれば、硬い土壌に根が入り込み、強い作物が出来る。不耕起農法ではこう考える。しかし、やってみれば分かるが、硬い土壌にも様々ある。石垣のように石混じり
の土壌であれば、石は取らないのだろうか。石に根が当たれば強い植物になるというのだろうか。

 無肥料というものもある。無肥料でも出来る作物や土壌はある。しかし、科学的に考えれば、肥料分の足りない土壌では、一般的に作物が十分に育たないのは当たり前である。どうやって無肥料で、不耕起で、叢生栽培で、豊かな土壌を作り出すかが、重要な課題になる。間違いなく時間がかかる。

 最低でも5年は見なければならない。その間新規就農したとすれば、大半の人が挫折していることが想像できる。問題は、叢生栽培で、不耕起で、無肥料で、豊かな農地が出来るまでの科学的な変化の過程を、農業技術として、つまり誰にでも再現性のあるものとして示す必要があるということだ。

 農業は場所に従うものである。小田原で出来たことが、石垣島では出来ない。石垣島で出来るようになったとしても、サハラ砂漠や北海道では出来ないだろう。農業技術は多種多様な条件の中で、どの範囲で応用が出来るかも示す必要がある。

 のぼたん農園では「あかうきくさ農法」「ひこばえ農法」を石垣島以南の地で、誰にでも可能なものにしようとしている。それは自給農法としてである。農業経験の無い人が楽しく出来る農法だ。74歳の私の体力でも出来る。一日1時間やればできる。そんな自給農法を模索している。

 

 - 楽観農園