今度はフリースクール否定市長の登場

   

 
 ついこの前は埼玉の児童虐待防止条例で驚かされたが、今度はフリースクール否定の市長の登場だ。滋賀県東近江市の小椋正清市長である。知らないが愛知の市長によく似ているので保守党の仲間かも知れない。調べたら自民党計だった。この市長の記者会見を見て、気持ちが悪くなった。

 言い方は悪いが「反吐が出る」記者会見だった。上から目線で世の中に警鐘を鳴らしているつもりなのだ。世の中をよくするつもりで世の中を壊してゆく、一番始末に負えないタイプだ。こういう人達の時代は終わったと思っていたが、トランプのようなゾンビが次々に現われる。

 本当に世も末である。世の中だんだん悪くなる一方である。まあ悪くなっているのは偉いという人の方から起きているようだ。我々庶民の方ではこれほどわるくはなっているとは思えない。庶民は偉そうにしていればすぐ上から叩かれて排除される。ところがお偉いさんは勘違いしたまま、オイコラで生きているようだ。

 だいたい子供が不登校になるのは、親の責任だと言い切った。そういうことを風呂や談義で発現するその辺の親父は確かに居る。しかし、その辺の親父はさすがに、表だった場所では、そこまで居直れない。市長ともなると、不登校児は親の責任で生じると記者会見で言い切る。

 責任ある市長が言い切る以上、証拠を挙げて欲しい。どこの調査で不登校の責任が親に原因があるとしたのか。この滋賀県東近江市の小椋正清市長 アンケート調査でもしたのだろうか。あるいは昔から滋賀県の親は特殊な地域とでも言いたいのか。

 調査した資料なしに、そういう印象でものを言うというのでは市長の資格がない。「文部科学省がフリースクールを認めたことにがく然としている。国家の根幹を崩しかねない」 「国が十分な議論をせずにフリースクールへの支援を進めようとしているため、議論できるように問題提起として発言した」 

 驚きべき認識の市長である。文部か確証が、学校制度で治まりきれない子供が居ると言うことを認識したのだ。ここまで来ることにどれだけの時間がかかったことか。小椋市長と同じ認識で、不登校児童への対応を学校教育の中で行おうとしてきた。

 しかし不登校児童のことを、調査し、研究してきた結果、フリースクールのような物を、利用することが教育上必要だと言うことが分かってきたのだ。もちろんフリースクールが受け入れれば解決というわけでもない。この背景には社会の変化がある。そこには虐めとか、家庭内暴力とか、様々な複合的な問題がある。

 小椋市長は古くさい考え方に凝り固まっている。元警察官だというからなおさらである。悪い事ではあるが、なるほどどんな人間かなんとなく想像が出来る。そういう見方はおかしいとは思うが、市長に合わせて言わせて頂く。「オイコラぶらついてないで学校に行け」なのだ。

 社会が大きく変っている。市長の立場で存ながら、フリースクールがなければ、大変なことになる状況だという認識がないのだ。学校だけでは対応できなくなっているのだ。私は学校に行かない子供を2人預かって一緒に暮らした。だから子供達がどんなに苦しんでいるかよく分かっているつもりだ。

 学校の先生方も親切に、仕事を越えて対応はしてくれた。しかし、それでも解決は出来なかった。場所を変えると言うことが必要で私と一緒に暮らした。私が役に立ったかどうかは分からないが、今は良いおじさんになって2人とも普通に生きている。

 いわば私はフリースク-ルのような人間だったところは良かったのだと思う。ああせいこうせいは言わない。私の毎日を見てもらうだけだったわけだが、気は晴れたのではないだろうか。一番困っているのは当人なのだ。学校という空間から身の置き所を変えると言うことが、重要なことだと思う。

 小椋市長の発言に「大半の善良な市民は、本当に嫌がる子どもを無理して学校という枠組みの中に押し込んででも、学校教育に基づく、義務教育を受けさそうとしているんです。」と言うものがある。これは教育基本法を理解できていないことを表している。

 義務教育の「義務」という言葉は誰が誰に対する義務なのかを理解する必要がある。これは国家には子供に対して教育を受けさせる義務があると言う意味だ。金沢大学の教育法の時間に小松先生から教えて頂いたことを今でも忘れない。子供に教育を受ける義務があるわけではないのだ。元警察官ならそのくらいのことは理解していなければならない。

 「無理して無理して学校に行っている子に対してですね、『じゃあフリースクールがあるならそっちの方に僕も行きたい』という雪崩現象が起こるんじゃないか。」 無理をして、無理をして学校などに行かないでも良いのだ。無理をしすぎれば心を病む。こういう市長がいるから心を病む人が跡を絶たないのだ。

 行きたくなければ学校には行かない方が良い。これは大前提だ。今の学校教育の世界では常識とされている考え方になっている。それではどこがその子供達を受け入れるのかと言うことになる。今までこの子供の非常事態を何とかしようと頑張ってきたのがうリースクールだ。

 その有効性を文科
相は認めて、そこに一時避難してもらうことが重要だとやっと認識をしたのだ。ここまで来るにも大変だったのだ。それを全否定する過去の世界から現われたような人間が市長をしていると言うことが問題である。東近江市の市民にはしっかりしてもらいたい。

 未だこの市長が発言を撤回をしないと言うことは、フリースクールへ行っている子供達を追い込んでいることになる。学校へ行かないことは少しも悪い事ではない。人間は学校に行きたい子供も居れば、行けないことどもも居る。人間は多様である。市長が子供を追い込んではならない。子供達のために発言を撤回してもらいたい。

 小椋市長はフリースクールを否定している。釈明会見では否定はしていないとごまかしているが、予算を付けることを良くないとしている。国の根幹を崩すとまで発言している。明治憲法復活を希望している輩だろう。民主主義時代の教育の意味を理解していない。

 国の根幹は自由に考えられる人間である。上から押しつけられたことに従う人間ではなく、自分の意志で嫌なことは嫌と言える人間である。それが民主主義を根幹とする日本国である。我慢して従う人間では、ダメだということが、日本は戦争に負けて分かったことなのだ。

 確かに小椋市長のような人間の復活が始まっている。情けないことだが、日本の停滞がこういう頑迷な、保守主義者の復活を生んでいるのだろう。こういう人の多くは、目立ちたがり屋である事が多い。またトンデモ発言で目立ってしまう。

 だから、有権者がしっかりしていて、何が大切なのかを判断できれば排除できるはずだ。アメリカでもトランプすら復活するくらいだから、日本もこういう人を権力者にしないように、せめて選挙には行かなければならない。と言っても、石垣島でも市民の命をないがしろにする、自衛隊誘致の中山市長なのだから申し訳がない。

 
 

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