維新の会のことがわからない

   


 ツルボが小田原には良く咲いている。

 大阪発の維新の会と名古屋発の税金党。いつまでたっても私の頭では有権者の支持が続いている意味が理解が出来ない。すぐに消えるかと思っていたのは東京人の感覚なのだろう。そういえば、小池都知事の訳の分からなさも、東京人にはさもありなんと、なんとなく納得できる。これかもしれない。

 東京の小池知事は都民ファーストの会である。初めて聞いた時には都民ファシストの会なのかと思ったが間違いだった。小池知事が作った希望の塾というのが母体だ。あの頃はなんとなく流れが来ていたのだけど。流れはどこかへ沁み込んでしまったが。伏流水になっているのだろうか。

 小池知事のことは名古屋や大阪の人には理解しにくいことかもしれない。目立ちたがり屋の女子アナの一つの変種なのだろうと、そうしたらどうも女子アナではなく、ニュースキャスターだと怒っていた。否定するほどキャスターをやっていたはずはないと思うのだが。

 都民ファーストの会だった都会議員が維新の会に鞍替えして、確か東京の参議院議員になったはずだ。政治家になるのが目的なのだろう。政党など有利ならばどこでも構わない。自民党がいいのだが、入れてもらえないので他を探す。まあ今は41名という凄い数の議員集団だから、一人一人のことは良く分からない。公明党が32名だそうだから、自民党補完勢力という意味では、生半端な数ではない。

 どうも、公明党も維新の会も、第2の保守政党という事で維持されているようだ。どちらの政党も立ち回り方が巧みで、時流をつかむのがうまい。主義主張はないのだが、一番受けそうな所へ舵を取るだけ。風を読んで進む帆船なのだろう。革新系の野党にはそれがない。

 創価学会が老齢化して陰りが見える分、維新の会が補完勢力として現れたという感じである。宗教には関係がない分まだましなのかどうか。極右勢力的なところ不安要素である。右翼団体との関係があるのだろうか。今後さらに拡大しそうだから、よほど気おつけなければならないことだ。

 「身を切る改革で覚悟を示す政治姿勢」、「既得権益の打破」、「若い力の活用、実直に努力する人に光を当てる組織」という維新スピリットだそうだ。私の理解では既得権益団体かと思っていたのだがそうではないらしい。維新スピリットには思想はない。結局どうでもいいことの羅列だ。

 既得権とは何かといえば、資本である。資本が既得権になっている時代なのだ。資本がいろいろの形で、政治とかかわる。電通とか、パソナグループを通して、情報を押さえる形で資本の既得権が守れている。情報独裁を目指しているのだろう。維新の会は関係していないのだろうか。

 目立てば勝ちというタレント候補。テレビ時代の政治家なのだろう。名古屋市長もお笑いタレントだったのかな、と思えるが、何をやっていた人なのかはわからない。教養は不足している。愛知ビエンナーレや県知事リコールで良く分かった。あくの強い個性である。名古屋の人以外にはなかなか、下品なのか庶民的なのか微妙なところである。市長としては想像のしにくいキャラクターだろう。

 まだ日本には地域性が強く残っているらしい。地域性という意味では、小田原に戻ると、なるほど私は小田原的人間だと感ずることがある。コロナの湯に行くと、緩んではまるのだ。こんなに油断できる場所はない他にはない。サウナに入り、カキ氷を食堂で食べていると、まるで無防備でいられる。

 石垣島にいるときはどこか身構えている。この違いは小田原の空気感にある。当然小田原でもよそ者ではあるのだが、なにか距離が測れる。自分の空気の中で息をしている。スーパーの小田百に行っても、この地域の一員として買い物が出来るのだ。この安心感は何なのだろう。

 長く暮らしたからというより、どこか小田原気質が理解できたのだと思う。かかわり方の距離感がつかめたという感じだ。小田原は15年暮らした土地だ。三軒茶屋は子供のころから暮らした。しかし、三軒茶屋に行っても全くのよそ者で、名古屋に行くのと変わりがない。

 もちろん三軒茶屋の方が土地勘もあるし、知り合いもいるのだが、どこか緊張をまとったままである。とても昔通ったからと言って、駒の湯や富士見湯に地元のものとして、緩んで入るわけにはいかない。都会の空気に入れなくなったのだ。どこか神経に触るところがある。

 維新の党の不安であった。全く理解が出来ないまま、大阪発が徐々に関東にも広がってきている。保守的感性の人たちで、自民党に不満がある人が、維新の会に投票するのだろうか。小田原でも目先が利く市会議員が、早速維新の会に入れてもらい、県会議員選挙に出た。落選はしたがそれなりの票はとった。目立たない市会議員時代の活動を思うとちょっと驚いた。

 維新の会のような得体のしれない組織が、これほど大きくなるのは特殊詐欺の一種に見えて仕方がないという不安がある。維新の会の不安は、思想がないことである。表明する政治思想がないのだ。資本主義の申し子の為なのか、資本主義思想の問題点に向かい合っていない気がする。

 出てきた事象への対
応だけの政党なのだ。例えばひつこく主張していた、大阪都構想というのは、行政の簡素化が可能という意味だったのだろう。2重行政を取り除くという事だが、東京は区と都による2重構造である。大都市では2重構造の良さもある。こういうことはどちらでもそれなりのものだ。

 世田谷美術館と、東京都美術館と、国立美術館と、3つ行政がかかわる美術館があるが、それが良いのだろう。大都市では様々な枠組みがないと、むしろ機能が果たせない事もある。もちろん一つにした方がいいというような分かりやすいまとめ方も一つのやり方ではあると思うが。

 行政の簡素化などもうできないのだ。どんどん肥大化してゆくばかりだ。それが資本主義下の行政サービスなのだろう。簡素で効率的な政府を実現するための行政改革の推進に関する法律 という法律が令和4年にできたが、そこにはさまざまな非効率行政が上げられてて簡素化の目標になっている。

 何しろマイナンバーカード一つ、ちゃんとは出来ない国なのだ。簡素化するためのAIへの対応が、行政が世界水準から引き離されたのだ。日本の官僚が優秀だったのは大昔の話だ。電通とパソナに外部委託しなければ何もこなせない状況なのだ。

 頭の良い人が、例えば東大を出るような人が、官僚になる。今の時代のよい成績の人の多くがが何を目指すかといえば、名誉とお金なのだ。どう考えても政治や官僚には向かない。日本をよくするという信念というか、思想がなさそうであるが、これは偏見か。

 維新の会の時代になれば、行政が優秀でてきぱきと何でも手早く処理してくれるのかという事になる。到底想像もできない。要するに日本人には行政の簡素化など到底無理なのだ。政治は票になるサービス合戦。簡素化はシステムのAI化。コンピュター党のほうがいい。

 マイナンバーカードへの一元化という事で、健康保険書の一体化。次は通帳との一体化。こうして情報の独占を政府は目指しているのだ。その理由は国民それぞれの弱点を押さえようという事だろう。首根っこを押さえつけて、ソフト独裁を目指しているのだ。

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