74歳の誕生日を迎えた。
3番田んぼのミルキーサマーで、ひこばえの穂が良くなってきている。
74年前の夏、笛吹市藤垈向昌院の味噌蔵の上の、中二階で私は生まれた。東京に嫁いでいた母が、私を産むために実家の向昌院に里帰り出産をしたのだ。当時の私の家は、三軒茶屋で銀座洋装店という生地屋と婦人服を仕立てる店をやっていて、かなり繁盛をしていた。
忙しい上に年子の兄がいたため、母のお産を三軒茶屋の家で行うことは不可能だったのだと思われる。また、母のお母さんは明治時代の看護師で、母のおばさんはお産婆さんだった。子供が生まれるためには万全の環境だったのだろう。当時は病院でお産をする人は東京でも希であった。
戦前は銀座洋装店という名前の通り、明治の女傑のような祖母が、銀座で始めた店である。淡谷のり子さんがお客さんだったと聞いた。当時の住まいは渋谷の松濤にあった。敗戦後店舗を探して、戦災で焼けなかった三軒茶屋で新しく店を始めたのだ。
物があれば売れるという戦後の闇市時代で、父はブローカーのように、全国の織物問屋を歩いて、生地を手に入れて商売にしていたようだ。生地も自由に流通は出来なかったらしく、それを旨くやるのが商売だったらしい。テキ屋の親分がよく挨拶に来るような人だった。
私の記憶のある、昭和30年頃でも子供の私が店に入ることも出来ないほど、店は人であふれていて、大いに繁盛していた。父はその店の商売で得たお金で、次々と土地を買い、ビルを建て行く。戦後の闇市世代の生活力に満ちた人だった。余りの多忙な生活だったために、私は母の実家の向昌院に度々置かれていた。
それは小学校になっても続いていて、境川小学校に通ったことも記憶にある。学校がある季節なのに、行かないでいるのは良くないことだと村役場に勤めていたお爺さんが考えた結果である。私は山の中での冒険に夢中でそれどころではなかったのだが。
親元を離れた御陰で素晴らしい子供時代を送ることが出来た。親元を離れることが少しもつらいことではなかった。むしろ向昌院にいつも行きたかったのだ。お爺さんは孫には甘いからだと言われていたが、実際のところは子供の頃から禅堂で育ったかなり厳しい人で、私の教育に本気できびしかった。
子供として行うべき暮らしを向昌院で十分に出来た。このことがすべての原点になっている。夏の辛い草取りをやらされるわけだ。草取りが終わるまで、他のことは何もやらせて貰えない。この辛い仕事を5,6歳の子供に徹底してやらせるのだからすごい。今思えばこれほど有り難い教えはなかった。
そのことを、子供ながらによく理解していたので、向昌院に行きたかったのだ。昔の禅堂では自給自足だったんだと、いつも言いながら農業をしていた。ミツバチを飼い、炭を焼き、何でも自給する生活だった。私に生活の仕方を教えたいという気持ちもあったはずだ。
坊が峰の開墾作業など、今も思い出すぐらいの夢と冒険に満ちていた。開墾をすれば、畑が貰えるというので子供の私まで頑張ったのだ。今も絵に出てくる坊ヶ峯は畑の区画で整然としている。御滝の森の脇を流れていた境川をせき止め、ダムを造り、大きな泳げる淵をこさえ、筏を浮かべて一夏楽しんだこともある。
この時大きな石を持ったまま、10mある石積み上から転落した。不思議にどこも怪我をしなかった。どこも痛いところさえなくふわりと舞い降りたようだった。御滝の森の精霊に守られながら子供時代を過ごしたのだ。御滝神社の神主も祖父が兼ねていた。
御滝の森にはこぶとりじいさんのほこらのある大木があり、夕立が来たらその中で雨宿りをした。夏でも12度までしか上がらない、霊験あらたかな泉がいくつもあった。その泉を利用して精神病の患者さんを向昌院では預かっていた。その森の大きな木は伊勢湾台風の時にあらかた倒れてしまった。明るくなった御滝の森から、精霊が消えたことが分かった。
あの子供時代の向昌院の暮らしが余りに楽しくて、その後自給の生活に入ったのだと思う。楽しかった理由は東京の三軒茶屋の都会暮らしが、つまらなすぎたと言うことなのだろう。中学時代も、高校になっても学校が休みの時は必ず向昌院に行っていた。向昌院には三軒茶屋から自転車で行ったことも、歩いて行ったこともある。
歳をとるとはどうも昔のことを思い出すことのようだ。誕生日だからか思い出が蘇る。74歳を半分に割ると、37歳である。半分の37歳までは画家を目指して、東京でもがいていた。画家になることに挫折して、後半の37年間は開拓から、自給生活をしてきたことになる。
自給しながら、絵を描く暮らしである。もうあれから半分の時間を折り返したのだと思うと長いことだと思う。そして、74歳からあと26年あればと思う。100歳まで絵が描きたい。絵がいくらかは進んでいるからである。どっちに進んでいるかはよく分からないのだが。
100歳まで進み続ければ、それはそれで満足だ。良くならないでも、変化して行ければそれも良い。今のままでは終わるわけには行かない。これが自分の絵だなという絵が描けるまでは終わるわけには行かない欲である。今は自分の絵に向かってもがいているわけだ。
と言
っても楽しく絵を描いているだけだなのだが。苦しんでいるわけではない。石垣島でいくらでも絵を描ける暮らしが出来る。大満足なのだ。計画通りである。まさかのぼたん農園をやるとは思わなかったが、素晴らしい崎枝ののぼたん農園の場所で絵が描けるわけで、渡りに船だったわけだ。
っても楽しく絵を描いているだけだなのだが。苦しんでいるわけではない。石垣島でいくらでも絵を描ける暮らしが出来る。大満足なのだ。計画通りである。まさかのぼたん農園をやるとは思わなかったが、素晴らしい崎枝ののぼたん農園の場所で絵が描けるわけで、渡りに船だったわけだ。
自分の命の流れを見極めることは大切だ。石垣島に来ることもその流れを見極めたことだった。先日の自動車事故だって、まかり間違えば死んでいた。居眠り運転をしていた若者の命を助けたる為の事故だと思い、我慢した。しかし、まだやらせて貰えることが残っているから、死なないことになっていたのだと思う。
中途半端で終わる人生もあるのだろうが、精一杯生きている人生は完結が貰えるのだと思っている。だから全力で生きて、終わりまで行ってみたい。努力不足ならば仕方がないが、やれることはやりきって残りの時間を生きたい。幸いなことに身体は元気だ、気力もある。
のぼたん農園の冒険は佳境に入ってきた。冒険の方角が見えてきたのだ。遠くに「ひこばえ農法」「アカウキクサ農法」という2つの到達しなければならない目標の島が雲間に見え始めた。最初はスマトラ島の「サリブ農法」だったのだが、目的地が違っていた。
「ひこばえ農法」は中国では1800年の歴史がある。「アカウキクサ農法」はベトナムで1400年の歴史がある。水田は稲作は東洋4000年の循環農業の奇跡だ。稲作が東洋文明を支えたのだ。古代文明ではトウモロコシ文化も、小麦文化も途絶えたのだが。水田稲作文化は素晴らしい歴史文化を生んだのだ。
この素晴らしい農法を確立して、日本の衰退の中で、新しい文化を構築するための、自給農業の確立を目指したい。食料を自給することで、資本主義崩壊の中でどうにか生き延びることが可能だと思っている。のぼたん農園の自給は100㎡の田んぼで、1年に50キロづつ3回150キロのお米が手に入ることが目標である。
何も持ち込まず。お米が永続的に生産できる農法である。2年目でこの農法の大きな枠組みは見えてきたが、水管理、土壌管理、病気対策、虫害、ネズミ害、これからの課題である。身体が動く年限はせいぜいあと7年ぐらいだろう。80歳まで田んぼが出来れば何とか技術の完成が出来るだろう。
この7年間に農法を完成して、誰でもが再現できる技術に仕上げたい。この大冒険の到達点が、見えてきている。そこまでは必ずやり遂げるつもりだ。身体を動けるように、まだまだ整えて行かなければならない。今のところオムロンが言うところでは43歳である。
良い仲間がいる。小田原でも多くの人に助けて貰えた。そして、石垣島でも幸いなことに、35名の冒険の同志がいる。これでやり遂げられないはずがない。74歳の幸せである。まだ暑い最中ではあるが、稲刈りが間近である。先ずは日本で最初のひこばえ農法の稲刈りだ。沖銀の人達が、SDGSで来てくれるそうだ。