移民、棄民、そして廃村、

   


やったぞ、ひこばえの立派な穂。

 日本から海外に移民された方々のことはいつも気になっている。私の父の叔母に当たる人が、アメリカのサクラメントに移民した人と言うこともあるかもしれない。移民の話は子供の頃から時々聞かされていた。貧しいから、日本の山村では移民するほか無かったと言う話である。

 山村農家では一人しか家を継ぐことが出来ない。長男さんである。子供の頃から長男だけが別格に跡取りとして育てられていたのだ。他の男の子は家を出るか、その家の小作人のような暮らしをするほかなかった。山村では農地を拡大することが出来なかったからだ。

 家を分けることが出来ない江戸時代の停滞世界では、人口増加が極めて少ない。姥捨て伝説であり、子供を間引き殺してしまうお話しが伝わっている。実際の所どれくらいの事実かは分からないが、そういう不安を抱えた社会だったことは確かだ。

 それが明治時代に入り、人口爆発が起こる。村を出てと会に移ることが可能になったからだ。都市が出現し、労働者を大量に必要とした。現代の人口減少であえいでいる姿から思えば、隔絶の感がある。結局、日本の人口爆発は、1回目が江戸幕府の崩壊で社会の大変革。2回目が明治政府を引きずって敗戦した軍国政府の消滅後。

 政府がなくなって、暮らしが良くなりそうな予感がして、日本人の中に希望が湧いてくるかのようだ。そして、明治時代に入り、多くの日本人が追い出されるように日本と言う国から出て行った。海外雄飛、ふるさとに錦を飾る。まだ一族から脱したわけではない。家族主義を残している。

 日本からの移民の実態は棄民だった。満蒙開拓のように、帝国主義の先兵の移民奨励もある。そして戦争を行い敗戦した。引き上げの悲惨。ブラジル移民の敗戦を信じない人々。様々どうしようもないことがあるのだが、日本という国家が同胞を棄民したという歴史的事実ほど、深刻なことはない。

 私は日本人が好きである。素晴らしい民族だと思っている。しかしその政府は大切な国民を棄民したと言うことは忘れてはならない。この事実を前に、言葉を失う。政府は、海外に日本人を捨てようとしたのだ。何という馬鹿な政府なのか。国土開発の政策が持てない無能な政府だったのか恐怖と怒りに震える。

 明治政府の能力の低さは、悲しいほどの物であったと思う。それは薩摩や長州という藩閥政治の、程度の悪さである。その意味では江戸幕府の政治力の方がはるかに高かった。国民を捨てるなど考えないで、国土の中での調和を図ろうとしていたのだ。

 それが江戸時代の差別を生み、違った問題があった訳だが、国民を海外に捨てた明治政府の方針よりはましだろう。脱亜入欧などと言う、馬鹿げた思想によって道を誤った明治政府の幼稚さを哀れというか、悲しいというか、日本人の限界なのかと、呆然とするほか無い。

 あの馬鹿げた明治政府を、お手本にしているという自民党という政党が日本の政治を長年担っているところに、日本の社会の限界を感じざる得ない。同時にまともな野党が生まれないことにも限界があるわけだ。日本人の保守的な体質はいつかはなくなると期待していたが、日本人にはその能力がなかった。お上が大事な忖度民族なのだ。

 日本は明治維新で間違った方角を目指す。日本人が、富国強兵、帝国主義、戦争、植民地。そうして棄民のみちを歩んだ。移民という名の下に、日本人を捨てたのだ。棄民を奨励しなければならなかった政府は、大日本帝国を目指して、侵略戦争をして、台湾、朝鮮、満州と植民地を形成して行く。

 そして敗戦に至る。多くの日本人が海外から引き揚げてくる。すべてがご破算になった日本では食べるものもない、住む家すらない。そんな状態の中人口爆発が起こる。山村でも戦争から引き揚げ者や開拓民の帰還によって、人口が増加してゆく。全国の中山間地に学校が出来てゆく。

 そして今廃校が進んでいる。藤垈の周辺の里山にもあらゆるところが開墾され、畑になった。麦を作ってほうとうを食べてしのいだ。ご飯もお米半分麦半分。麦ご飯のすえた匂いはどうにもいただけなかった。私は朝昼晩とほうとうを食べた。甲州赤小麦である。今この種を探しても見つからない。この長い麦わらで屋根を葺いたのだ。

 人口の増えた山村では、何時までもあふれかえって暮らしていることは出来ない。都会に出て行くことになる。そして、戦後開拓移民で中南米に勇渡する人達が出てきた。国内で開拓移住が始まる。沖縄では米軍による接収で強制移住が起こる。またも棄民である。ブラジルでとても良い暮らしをしているという、うまい話が子供の私にも伝わった。それを聞いてさらに移民をする人達がいた。

 藤垈部落は多くの人が暮らせない、とても貧しい村だったのだ。そのまま人が暮らしていることは出来なかったのだ。都会だって人があふれていて、小学校は60人学級の5クラス編成。だからといって教育が不十分だったとも思わない。おじさんも母親も教師だったのだが、過重労働という話は聞いたことがない。

 農家の子供は小学生になれば何らかの仕事があった。私は風呂焚き担当である。薪を山から取ってきて風呂は焚く。風
呂桶の水汲みもバケツでやらなければならない。好きな仕事だった。中学生になれば普通に労働力だったが、もちろん違法ではなかった。

 後に聞いた話ではあるが、向昌院にお墓のことで見えた女性がいた。村にあった家は無くなってしまっている。両親のお墓を100万円あるので作りたいという話。その人は子供の頃に売られてしまった人だった。その人のその後の暮らしを知っていた祖父は、そのお金は貰えないので、お寺でお墓は直して供養してあげることにした。

 厳しい山村の暮らしなのだ。高度成長期はそうした敗戦によって生じた苦しい日本人の暮らしがバネになって生まれた。村では都会で稼いだ人が実家を直したという事が良くあった。3Kどころか、何でもやることの出来る人の方が稼げると言う時代だった。

 日本の山村が失われて行く時代がきた。肉体労働をやる日本人がいなくなって、海外から技能研修生に来てもらわなければならない時代。私の74年の間にも、大きな変化が起きた。豊かなはずの日本人の山の暮らしが、暮らすことも出来なことになり、放棄されて行く。全国に1000以上のかつては学校のあった廃村がある。何かが間違っている。

 私にもう一度の人生があれば、山の中で開墾生活をしたい。あれほど充実し手応えのある生き方はない。安心立命の暮らしに向かう暮らしはない。今は石垣島で「のぼたん農園」を最後の力で作っているが、十分に働けないことが残念で仕方がない。それでも多くの人が一緒に働いてくれる。

 みんなの力を借りることが出来るようになったと言うことも、一歩前進なのかもしれない。一人で出来たら、みんなでやる。これが自給生活の鉄則である。自給生活から暮らしを見直してみるべきだ。日本にはもったいないような、自給に適した素晴らしい場所が山ほどある。そうか、山には日本がある。
 

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