移住3回目の結果が最高
いわゆる移住を3回行った。一回目は30代後半に山北の高松山の山腹に移住した。二回目は小田原久野に移住した。そして三回目が石垣島である。最近移住がコロナでいろいろ言われるが、どうも私にはここでの話題がしっくりはこない。
3回の移住をしたと勘定しているが、引っ越しといえば、全部で10回以上はしている。金沢とか、パリとか、東京とか、あちこち引っ越しは多かった。移住とは移って暮らすことだろう。暮らしに重点が置かれている言葉だろう。暮らしなど無かった、金沢でも、パリでも移住したわけではない。
何故移住とあえて言うのか考えてみる。いつも私は石垣島に越したと書いていた。石垣島に来た4年前には、移住という感覚では無かったからだ。移住というのは私には越した土地で開墾生活をすると言うことになる。のぼたん農園を始めて、やっと引っ越しが移住に変わったような気になっている。
移住はやはり新しい土地で、生計を立てると言うことが伴わなければ、おかしいのだろう。年寄が老後の安住の地を求めて移るのはやはり引っ越しだ。働いている人がテレワークで遠くに越すのは、やはり移住ではないだろう。生活がどこかとお買いと繋がっているのだ。
引っ越しや移住を繰り返した体験を書いてみる。書くほどのことも無いのだが、山北、小田原、石垣と移住して、場所の違いはよく分かる。小田原と山北とは車で30分ぐらいの所にある。それでも、小田原と石垣島よりも違う場所である。
最近移住者の話題がブームになり、その失敗談や成功談が語られている。私の第一印象では移住する場所で、まるで移住は変わってくると言うことだ。だから、熊本の移住話は熊本以外では無意味である。それくらい地方の事情は異なり、一口にくくって説明すれば間違うと言うことだ。
例えば地域のお祭りに参加するのが良い。と言うような一般論がある。しかし、その参加方法は多種多様だ。地方は人口が減少している。担い手が不足しているのだろう。その担い手として加わろう。この気持ちは大切だが、加わって欲しくない地方や人もいる。
その配慮ができない人であれば、むしろお祭りに参加する資格がないのだ。そのくらいの、繊細さが無いのであれば、地方暮らしは無理だと思う。そう無理な人の方が多いはずだ。都会暮らしは隣と関わらないでもかまわない。石垣島の今の暮らしはまったく隣と没交渉である。
地方で暮らしている人の中には、屈折している人がいる。都会から来た人に何かしらいちゃもんを付けてやろうとしか思わない人が結構いる。この点では山北、小田原、石垣共通である。ヨソ者嫌いである。普通の悪気の無い人なのだが、何かと突っかかってくる人がいる。
私が始めて山北に移住した1985年頃は、移住の始まりの頃だ。数えてみれば36歳の頃だ。若い。確かに体力もあり、体力勝負にかける事ができる年だった。この時はともかく地元の人と接触しない暮らしにしようと考えていた。自分の生き方を究める為の移住だったからだ。
山北の街からはまっすぐ北に高松山に1時間ほど登ったところだ。滅多に人が来るようなところではないのだが、わざわざ指導に来てくれる人がいる。ああした方が良い、こうした方が良いなど、山北の人の他人を指導したがる性格には驚いた。結構ですと言うまで帰らない。
嫌がっているのに、何度も指導に来る人さえいた。どんなに排斥されてもかまわないと考えていたので、最後には指導はいらないので、結構ですとはっきり言うまで、終わらなかった。何故、人間は自分がやった経験も無いことにまで指導をしたがるのか、これについては農家の人の傾向なのかと今は思う。サラリーマンの多くはそんなことはしない。
山北ではその後養鶏業を始めたのだが、山北地域には関わらないように、山北では卵は売らなかった。この判断は間違いが無く、その方針が正しくその後生計が立つようになった。山北での移住生活の教訓は「はっきりと拒否する。」このことだった。誰とも関わらず満足の行く自給の暮らしが出来た。
その後13年山北にいて、小田原に移住した。この時は久野のダック反対運動の関係で、知り合いが多く久野にいたので、お世話になりながら小田原に越した。移りたくはなかったのだが、母の病気が深刻で、小田原の市立病院に通うための移住と言うことが一番大きかった。
養鶏場の新設が大きな課題だった。養鶏場用地を見付けてから、家を探した。小田原植木さんの増男さんにすべて世話になった。石垣に越して、増男さんをがっかりさせてしまった。その後久野々方には様々世話になった。今度は地域の一員になるつもりで暮らしていた。
とことん排斥しようとする人もいた。今でも何かといちゃもんがある。かまわずこちらから地域に入っていった。すべての地域の仕事はやり、自治会長もやった。その後また二度目の公民館長をやった。何しろ地域の仕事は、行政の表彰式の手を叩き盛り上げる係というような無意味な仕事が多い。
90%が無意味見える仕事なので、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、忍耐を覚えた。それでも、今でもヨソ
者として嫌われているので、何かと農の会の活動にいちゃもんを付けてくる人が数名いる。地域社会とはそういう物なのだろう。それを受け入れて暮らさなければ地域には暮らせない。小田原での教訓は「すべてを受け入れる。」
者として嫌われているので、何かと農の会の活動にいちゃもんを付けてくる人が数名いる。地域社会とはそういう物なのだろう。それを受け入れて暮らさなければ地域には暮らせない。小田原での教訓は「すべてを受け入れる。」
そして三回目の石垣移住4年目である。冒頭にも書いたように、引っ越しのつもりで石垣には来た。歳をとったので、便利な場所が良いと言うことで、石垣野町中に越した。石垣では絵を描くだけにしようと思っていた。田んぼや畑をやりたいときには、小田原でやれるのだから良いと思っていた。
ところが石垣で人との出会いがあった。人間として学ばなければならない素晴らしい人達と出会った。これはのぼたん農園をやれと言うことだと思うほか無かった。この歳になり、未熟な人間として、すごい人間から学ぶことが出来るというのは有り難いことだ。日々学びながら精一杯暮らす日々である。
のぼたん農園の暮らしは、初めてのことばかりである。湧き水で行う田んぼの困難さを味合わされている。自然の前に祈り、願い、後は受け入れる。この気持ちが良く分かった。自然の厳しさはすさましい。それをすこしづつかわしながら収穫まで結びつける。厳しい石垣の自給生活。
石垣で分かったことは仲間を得ると言うことが出来たことだ。私の力で仲間にどれだけのことが出来るのかは分からないが、恩返しをして行かなければならない。73歳に成って、一緒に冒険をする仲間が出来たのだ。石垣にはそういう冒険家が集まってきているということだ。
石垣島の土地柄なのだろう。石垣島に江戸時代から暮らし続けてきた一族の人に出会うことは滅多にない。私は2人だけだった。それほど移住が行われてきた島なのだと思う。八重山合衆国と言われている。その移住者というか、移住と言うことから生まれる力が、石垣島の活力。開拓をやり遂げた人はすごい人ばかりだ。
約5万人の島である。たぶん5万人を前にして、人口減少、あるいは停滞に入りそうだ。農業環境は従事者の高齢化が進み、田んぼの耕作放棄地が広がり始めた。このことは石垣島全体の環境に影響を与えるはずだ。田んぼという湿地が消えつつあるのだ。自然環境にまずいことが起こる。田んぼが無くなり沖縄本島のような少し砂っぽい自然に変わる。
こうした社会状況の中で、何とか自給農業の広がりに手助けをしたい。これが石垣島での役割だと考えている。ひこばえ農法とアカウキクサ緑肥である。自給農業技術の確立が、私に出来る唯一のことだ。何としてもこのことは実現したいと考えている。石垣でわかったこと「自分の役割を果たすこと」