絵はバラバラでいいのかも
マチスを見ればマチスだと分かる。ゴッホを見ればゴッホだと分かる。中川一政の絵は他の何ものでも無く、中川一政である。本物の絵に於いては当たり前の事なのだが、何故だろうかと思う。ゴッホもマチスも中川一政も、年代で絵はかなり変化している。自分の描き方に至るまでに紆余曲折がある。
良い絵描きは様々な絵を模索しながら、自分の絵に至るようだ。それに競べれば明らかに私の絵はおかしい。おかしいのはかまわないが、何故か、あちこち揺れ動いていて、一向に自分の絵の探求という感じにならないのかと思う。好きなように描いているだけではダメなのだろうか。と考えるときもある。
描く対象が変わると言うことはある。描きたくなるものがその時々で変わる。海、空、田んぼ、花。と言うことなのだが、その時の気分で変わるのであって、何か考えがあってのことではない。突然花がおもしろくなることもある。
この前から、満開のノボタンを見ていて、ノボタンのあの色が描きたくなっている。桃色なのだが、その質感の重さが何とも良いものだ。その良さは空の晴れやかさや。海の色が連想されてのノボタンの桃色なのだ。一つの色に感激するのは、周辺の自然を含めての結果なのだと思う。
果たして私の絵は私の絵に見えるのだろうか。今のところは残念ながら見えない。筆触というものがある。これは鑑定が出来るくらい癖が出るものらしい。だから絵も線とか点を見ればその人の癖は出ているのだろう。しかしここで言うその人の絵という意味はそういうことでは無い。その人の思想や人間全体が表れているかという意味だ。
AIで制作された絵画というものがでてきた。例えば写真素材を入力し、ゴッホ風に作るというようなことが出来る。薔薇の写真素材を水彩画でと入力すると、今よく見るような商品絵画が表れる。こういうものを見ると一体人間というものはなにものなのかと改めて思う。
人間が創作すべきものが明確になる。AIでは作り出せないものを作り出すのが人間であり、人間が行う創作活動はそういう物だ。人間が創作したときには、他の人の作品とは明確に異なるものになるはずだ。思想哲学が違うように絵も違うものになる。
AIにクリエーターの仕事が奪われると言われている。AIに取って代わるだろう仕事をそもそもクリエーター、創作された制作と言えるわけがない。イラストレーターと言えば良いのだ。いわば代書屋と書家の違いのようなものだ。歌手のことをアーチストと呼ぶのとも似ている。そういえばAIの歌手も存在する。
絵を描くと言うことの面白さは、創作するという所にある。AIのように写し方のバリエーションで制作するのは、創作ではない。ゴッホ風に花を描きなさいと言われて描く。この制作方法はAIは創作をしているのでは無い。コピー機の新しい形に過ぎないのだ。コピーするときにパターンを加えているに過ぎない。そういえばそういう絵描きは多い。
写真機が出来たときと似ているのだろう。現代社会は芸術性の高い文化が衰退した社会なのだ。熊谷守一の絵画が面白いというような余裕は失われただろう。藝術は高い文化性を持つ観衆がいて始めて成り立つ。観衆が求めるものがAI制作であるのかも知れない。
中川一政や梅原龍三郎や富岡鉄斎や須田刻太の書が素晴らしいと思うのは自由自在だからだ。まず鉛筆で下書きをしたものがある。そして書画一如としたと説明したいう。その話を画廊でしたら、書の評論家という人が、書に下書きなどあり得ないと否定的に反論した。たぶん公募展の真似方の上手な書の評論をする人だろう。AIがいらないくらいだ。
最近の社会はAI程度の作品が芸術と混同されてきていると言うことだ。文化勲章作家である絹谷浩二氏の最近作は、絹谷風に龍の絵を描いて欲しいとAIに頼んで出来たもののように見える。絹谷浩二氏の作品はすばらしいと思ったこともあった。今ではその癖のある描法がパターン化の原因になっているように見える。
中川一政風に、須田刻太風に、松田正平風に、〇〇風にと言うように絵を描くことは創作ではない。さらに気をつけなくてはならないことは自分風にと言うところにある。いつもまっさらなきもちで、何風を乗り越えて絵に向かわなければならないと思っている。思いも寄らない絵が表れても良いと思っている。
こんな調子で絵に向かうので、まさかと思うような絵も表れる。それでいいはわからないが、仕方がないと思っている。目標はもう少し先に置いている。今結論を出そうとして、易きに流れることは避けたい。あわてることなく、今の自分のあさはかな底に向かうことだけだ。
当たり前の笹村出が、生きてきて記憶してきたものが表れてくるのを受け止めたいと思っている。記憶の蓄積を厚くしてゆくように、風景をよくよく見たいと思う。絵を描く為に見るというのは、ただ目に映るのとは違う。感動の根本を見ようとしているのだ。
この感動が根源にない記憶は絵を描く為には無意味な記憶だ。どこまで風景に感動できるのかが、絵を描く要素になる。絵に田んぼが表れてくるのは田んぼを見ていて、感動しているからだ。感動の蓄積が記憶になっているのだろう。こ
の感動を描こうとしている。
の感動を描こうとしている。
それは植えられた稲の苗が水に写る様子であったり、田んぼの土壌の様子であったり、たわわに実りゆれる稲穂の色であっあり、田んぼには無限とも思える面白さがある。この田んぼを作っているという事も感動の源になる。その感動を点として置かれた緑が、表してくれなければならない。
AIに以上のような説明をして、絵にしてみて下さいと言ったらどんな絵を描くだろうか。もっと明確に説明してくれなければ、描けないと答えるのだろうか。私の今までに描いた絵をすべて入力して、笹村出風でお願いしますと言えば何とかなるのだろうか。
こうして、芸術としての絵画は、私絵画に進んでゆくほかないと言うことになる。どこまでAIが進化しようとも、人間が絵を描くという行為に、深い喜びを感じる部分は代替えすることは出来ない。結果としての絵はAIには出来ても、感動し、思考し、悩み、制作する自己は、私でしかない。
この私の行為の在り方を、藝術としての行為に高めてゆくのが私絵画である。行為の証として絵は存在する。その絵はそれぞれのものになるのだろうが、まだどのようなものになるのかは分からない。AI絵画が表れて、つまらない商品絵画がAIに任されて、その先の時代は「私絵画」の時代になる。
私絵画という、AIには一番縁のない絵画が、次の時代の絵画になるのは必然である。論理的に絵のことを思考する人が居ない時代なのだろう。それは絵だけのことではないのかも知れない。哲学者不在の時代。哲学無き時代。社会を導く思想家の不在。即物的な時代と言うことか。