社会が分断したから、停滞した。

   



 世界は分断された社会に一歩づつ進んでいる。階層化された社会の中では、分断を無くすことは不可能なことだ。分断の原因は資本主義の末期的な状況にある。能力主義が社会の隅々まで浸透し、暮らしにくい社会にますますなっている。

 能力主義は能力の違いを、人間の価値に置き換えてしまう。本来能力があろうとなかろうと、人間はそれぞれに価値があり、その価値はあらゆる意味でそれぞれのものであり、外部から評価され、差別を受けるようなものではない。人権が尊重されることは、人間の社会の正義なのだ。

 能力主義が正しい競争を促し、社会が豊かになるだろうと、戦後の日本社会は考えて進んできた。ところが、混沌とした戦後社会での努力は頑張れば報われるという形があった。ところが社会が安定化して、頑張ったところで階層は越えられないという現実が生まれている。

 社会正義が失われ、一人一人が差別され、そして差別する社会になっている。能力差別が他の差別と違うのは、能力の違いにはは努力したかしないかがあるのだから、差別を受けても仕方がないことだ、とされているところに問題が潜んでいる。

 何時の時代も確かに人間がその能力によって、差別を受けている。そのことは誰でも知っていることだし、大半の人が受け入れざる得ないと考えている。自分は劣るのだから軽視されても仕方がないと認めてしまっている。現代社会に於いては能力差別が深刻化してきている。


 最後の差別として存在する能力差別が、次第に深刻化してきて、生きづらい社会になったと言える。そのために、健全な努力が失われた社会が生まれている。人種差別や女性差別や職業差別とは、その成り立ちが異なるのが能力差別なのだ。差別があっても仕方がない。あるいは当然のことだとして、例えば能力給とか出来高支払いと言うことになる。

 絵画の値段が違うというようなことである。版権とか、著作権というようなものが、能力差別の表れになる。果たしてそんなことで良い絵が生まれるかと言えば、そうではないだろう。良い絵が生まれるのはお金とはまったく関係がない。絵が好きな人が何があっても絵が描きたいと言うときに、良い絵は生まれている。

 人間は生きることが出来れば、後のことは収入には反映しない方が、人間の本当の能力を引き出すことになる。収入に反映しないのなら、努力をしなくなると言うのが、能力主義の考え方だが、制先端で問われている新しい発想は精神の解放されたところで生まれる。

 すべての人に等しく生活を保障して、働くことと収入を関係させない社会を作る。そうした平等社会であっても、人間は暮らししてゆくことは出来る。生活の競走のない社会であっても、人間は自分の人生を輝かせるために努力をするものと信じた方が良い。

 人種差別や性差別は無くすべきだとされているが、能力差別だけはある程度必要だとさえ思われている。能力の高いものが賃金が高く、能力が低ければ賃金が低い。それが当然のことと思われている社会だ。人間には能力の如何に関わらず生きる権利があるにもかかわらずである。

 それが菅元総理大臣が国会で答弁したように、最後には生活保護があると言うことになるのだが。現代の社会では生活保護をもらって居ることにも差別があるような社会である。貧乏である事が、詰まり能力が低いと言うことになり、差別の対象になるような社会なのだ。
 
 何故、能力主義が行き過ぎると分断が起こるのか。何故、分断の根底に能力主義があると言えるのか。このことを考えてみる必要がある。人間の豊かさが不足していたからではないか。全人類の生活水準を同じにして、平等に分けたとしても、日本では人間が生きていけるだけのGDPになっている。

 日本人の一人当たりのGDPは473万円これは台湾や韓国とほぼ同じ。これでやって行けるのだから、平等にしてしまう方が社会に活力が戻る。日本が経済停滞に入り、生産性が先進国の中で極端に低いのは、日本の社会が相変わらず頑張れば何とかなる式の、竹槍経済だからだ。

 人間を信じて自由にその能力を発揮できる社会を作る必要があるのだ。ブラック労働で上からの圧力で、人間を追い詰めて働かせるような社会では、自由な発想から新しいものが生まれるようなことがなくなるのだ。頑張ればなんとか成るような状態ではないと言うことを自覚しなくてはならない。

 やりたいことをやる。好きなことで働く。人間を支配するのではなく、解放する以外に、日本は停滞から抜けでられない。人間の能力はその人の意志でその人の好きなことで頑張るときに一番発揮されるはずだ。競争で能力が成長するわけでは無い。

 それぞれの人間が十分にその能力を発揮できれば、人間は普通に生きて行ける。例えば、どんな仕事で働くとしても同じ給与である。経営者も労働者も同じ給与である。給与は必要なだけだ。そういう社会に成った方が日本は停滞を抜け出るはずだ。

 総理大臣の方が村長よりも給与が高い必要はない。村役場の窓口担当も総理大臣も収入に関して言えば同じがいい。それでも総理大臣になりたいという人は居るだろうし、窓口担当が良いとい人も居るはずだ。適材適所で働く社会が来る。

 未来の社会は頭脳はコンピュター、肉体労働はロボットにかなりの部分置き換えら得るのだろう。人間は人間らしい創造力を生かして生きてゆくはずだ。コンピュターを駆使して、より創造的な発想をする人が出てくる。ロボットによって、肉体労働の負担は軽減される。

 もし能力主義を抜け出ることが出来なければ、日本の停滞はさらにひどいことになるはずだ。竹槍主義で日本が全面降伏した時のように、日本の社会は分断され、活力を失った社会になるはずだ。日本の生産性が低い理由は、日本の社会がやりがいのない社会になったからだ。

 やりがいを金銭に置き換えた社会が機能しなくなったと言うことなのだ。やりがいを名誉という社会も活力を失った。天皇陛下から勲章が貰えるから頑張るなどと言う人は、もう絶滅寸前であろう。人間が本当に頑張れるのは、好きなことを十二分にやれるときだ。

 ブラック企業で名前だけ店長にされて、死ぬほど頑張れば、必ず未来は開けると言うような幻想で働くことには限界がある。頭を使わせないで、洗脳で強制労働させるようなものだ。もっと合理的に生産性の向上を図る努力が必要なのだ。

 

 - 暮らし