中川一政の絵
松任の駅のすぐ隣に、中川一政美術館がある。金沢に来たら必ず寄る。見るたびに、中川一政のすばらしさが増してくる。時代が変わって絵の価値が明確になってきている。絵が中川一政氏その人なのだ。中川一政氏が素晴らしい方だから、絵が素晴らしい。
その人であるということがどれほどすごいことかと思う。水彩人展を開催している「うるわし」はすぐ隣なので、毎日でも見に行くことができる。毎日見に行き思うことは、中川一政の絵より下手な絵は、水彩人にはない。水彩人の絵は上手ではあるが、絵ではまだない。
私の絵もまだ絵ではない。絵に届くためにはまだまだ時間がかかりそうだ。絵になるためには、まずは借りてきた、様々学んだものを脱ぎ捨てなければならない。中川一政の絵は自分の目だけで描かれている。他人の見つけた美術を全く材料にしていない。
自分の見ている世界だけを頼りに、絵を描こうとしている。その結果が90歳を超えてから現れてきている。もし中川一政氏が90歳で死んでいたとすれば、まだ到達していないことになる。90歳以降の絵があるから、90歳まで描いた絵の意味が明確になる。
90歳以降に描いた絵の世界に至るために、ただ自分の目を信じて描き続けたということになる。あのすさまじい苦闘の絵「箱根駒ケ岳」シリーズはなんと74歳から始まったという。たいていの日本で絵を描いていると称する人は、74歳になると上手に自分の絵の模写を始める。
画家という名の美術工芸品を作る職人になっている。世間がそうさせるのだろう。だから、大体の場合、50歳を過ぎると絵が衰えてゆく。自分の画風を作るまでがまだましな時代ということになる。中には20代ぐらいで自分を決めて、あとは磨き続ける人さえいる。
そうした人の絵は生きている間はまだしも、死んでしま絵はたちまち消えてゆく。歴史を超えて残って行くような絵はまずない。人が死んでも絵が永遠に生きてゆく。そういう絵は極めて少ないのだろうが、中川一政氏の絵は確実に輝きを増してきている。
私の絵を見る目が進んで、中川一政氏の絵を見ることができるようになったということもあるかもしれない。昔から目標で、春陽会に出品したこともあった。そうしたら、その年で私は春陽会をやめるという挨拶があった。そのまま春陽会には出さなかった。
それでも何度かお話を聞く機会があったことは私の宝である。指針になっている。絵の描き方は学んだわけではないが、絵がどういうものかは学んだと思う。目指している「私絵画」はそこにある。絵を描くということが目的になる。絵が描かれた絵ではないのだ。描くことの意味を問う。
宮沢賢治の作品を思った。森鴎外は文豪と呼ばれたのだが、今ではまず読まれることはない。宮沢賢治は童話作家ぐらいに呼ばれたのだが、今その本質が輝き始めている。多くの人に読まれ続けている。結局、賢治の生き方が書かれているからだ。
あと50年たてばそのことはさらに明確になる。あと50年たてば、東山魁夷や平山郁夫の作品は埋もれてゆくだろう。しかし、中川一政の絵はどんどんその意味を増してゆくはずだ。宮 沢賢治が世界で評価されてきたように、中川一政の絵は日本の絵画の代表になっているだろう。
そこにあるのは中川一政氏の精神の高さである。それは日本の絵画が明治期に、西洋絵画の影響で目覚めて、新しく日本の精神を模索した結果である。禅の精神に基ずく絵画である。中川一政氏の絵はまさに高僧の絵である。絵が人間をそのまま表すところまで行っている。
絵は比べるものではないから、中川一政の絵と比べるわけではないが、自分の至らなさばかりが目立つ。絵に迷ったら、中川一政美術館に来ることにする。中川一政の絵は私の基準点である。確かな方角を示している。方角に迷ったときに、見れば羅針盤のように方角が確認できる。
絵の力はそうしたものなのだろう。到底及ばないことだが、いくらかでも学んで恥ずかしくない、絵を描くことにしたい。箱根駒ケ岳の連作が74歳で始めたものだというのだから、よしこれから、「のボタン農園シリーズ」を始めても遅くはない。