仲間が居れば元気が出る。

   


 夜の那覇空港 台湾から戻るときに、直行便がないので、那覇で乗り換えて石垣に戻った。

 絵を描くのも、田んぼをやるのも、仲間とやってきた。みんなでやることで前に進んでこれたと考えている。天才ではないので、一人でやれることには限界がある。仲間とやろうとしたかと言えば、その方がおもしろいからである。一人でやってみて、そう思うようになったのだ。

 絵を描くと言うことは普通は一人で描く。金沢大学の美術部で坪田さんと浅野さんと大河内さんと4人で共同制作をしたことがあった。ベニア2枚の大きさの絵を4人で描こうとしたのだ。理屈で絵を描こうとしていたからだろう。共同制作に挑戦してみた。結局それぞれのやり方が旨く融合はしなかった。

 ただその時に感じたのは共同制作の作品を描いているときに、自分にはないものの上に、自分の描き方で絵を描くと、やりにくいがそれを乗り越えることは出来る。結果、不思議な感じになると言うことは体感した。すでに誰かが描いたものに手を入れて、自分の絵を描くという感じが、いつもの絵を描くと言うこととは発想が違った。自分を壊すことが出来るような感じがした。

 テレビで、絹谷浩二親子が共同制作作品を作る番組があった。どういう意味合いで行われたのかは分からなかったが、なんとなく父親が娘を売り出したいのでそういう企画に乗ったように見えた。その作品が絹谷浩二氏の作品を越えたなら別だが。私にはそうは見えなかった。

 学生の頃の共同制作は、私がどんどん描いてしまうもので、その後手を入れられなく成るという結果になって、途中で終わったと記憶している。誰かのやろうとしたことを、上手く生かして、一人で描くよりもおもしろい絵が表れると言うことを期待して始めたわけだが、残念ながらそうは成らなかった。

 この時分かったことは、一人の個性と言えるようなものは、他人の個性と融合して高まるためには、共同で絵を作り上げる仲間の中で練り上げなければならないものが必要だ。いう当たり前の経験をした。計画では互いにないものを補い合って、未だかつてないような作品が出来上がるはずだったのだが、そうはできなかった。 

 丸木夫妻の原爆図はいわゆる共同制作なのだろう。デッサン担当と、着色担当に分かれているらしい。確かに一人では出来ないものを二人で作り上げている。しかし、原爆図が芸術作品なのかと言えば、違うとみる。原爆の悲惨を人に伝えたいという意図はよく分かるが、作品には見えない。

 小林秀雄が書いたように人間を絞り出すことが、芸術作品。そうだとすると原爆図はどちらかと言えば、芸術作品ではなく、原爆批判のためのプラカード看板図のようなものになる。それは戦意高揚の戦争画と呼ばれるようなものも裏返しで同じような作品であろう。看板なら共同制作は良くある。

 作品というものは自己体験から絞り出てきた絵だと思う。自己表現だけが芸術だと言えばそうなる。それでは金沢大学の美術部で試みようとしたものは、美術部における共同体験のようなものが、集団の共同制作によって表れて来るはずと考えたわけだが、そうは成らなかった。技術の未熟さが原因していたとも思う。

 共通する体験をしていなかったと言うことはあり得ない。あの時代の濃密さが、絵にならないわけがない。あのときは人間としては互いを高め合うような関わり方をしていたはずだと思う。その意味では、あの美術部での4年間が今の私という人間の形成をした。しかし、そのことは絵画の上では表れるはずだった。

 出来ないと言う結論になった。あの絵をもう一度見てみたいものだ。今ならなぜできなかったのかと言うことが、もう少し分かるかも知れない。こんど金沢で浅野さんに会ってみたい。浅野さんには随分会っていない。会っては居ないが、時々思い出して彼ならこう考えるだろうとか、今でも仲間として仮想のとなりに居る。

 そうだ共同制作をしようとした仲間とは、その後シルクスクリーンの工房を始めたのだ。その工房には落合さんも加わった。落合さんが余りに熱心だったのだが、その意味はよく分からなかった。分からなかった人はやはり、自問する仲間として思い出すことはないことになる。落合さんはしばらく前に死んだと聞いた。

 互いに自問する仲間は自分の中に沢山居る。励ましてくれる人も居る。そうして自分は絵を描いているし、農業も続けている。曲がらずに何とか生きて来れたのは、多くの仲間が居たからに違いない。仲間が出来る場を求めてあれこれやってきたような気がする。

 水彩人展もそのつもりでやってきたのだが、ついに25年前に始めた仲間は7人から3人に減ってしまった。なぜかと思う。残念だと思う。受け入れがたいが受け入れるほか無い。しかし、一方で7人だった仲間が50人にまで増えたとも言える。それはおおきな喜びである。そう考えて去って行った仲間のことを耐えるほか無い。

 水彩人展もこの先どうなるのかは分からない。良い仲間になるように、大切にしていかなければならない。今年は、4月26日から30日まで石川県でうるわし展があり、私は担当である。途中、27日だけは東京にゆく。何か慌ただしい。

 そして、9月には上野の都美館で25回展である。新しい試みをやりたいと考えている。まだもう一つはっきりしてこないが、みんなで張り切ってやって行こうと言うことだ。それが25回展の一区切りになる。

 あしがら農の会は私が石垣に退いて、むしろ活発に活動を続けている。コロナ下で、共同の活動は難しくなっているにも関わらず、多くの活動が昔以上に活発に行われている。先日の味噌造りも、80人も集まり気持ちよく行われた。参加させて貰うことが出来て、久しぶりの小田原の仲間と再会が出来て、気分爽快であった。

 なかなか小田原に行けなくなっている。2月は石垣の田植えがありどうしても無理になった。今度行けるのは3月末になる。ジャガイモはまだ植えられるだろうか。植えられなければ仕方がない。4月に入ってからでは遅いだろうが、溜め池のカキツバタの移植だけはしたい。

 そして、石垣では田んぼの新しい仲間が出来て2年が経った。ラインで連絡を取り合っているのだが、32名と出ている。実際に田んぼに関わっている人はもう少し少ないのだが、それでも2年で随分と仲間が出来ている。関連の田んぼもあらたに一つ出来た。

 出来れば緩い連携が取れる、田んぼが年々1つぐらい出来てゆけば理想的である。可能性は十分にある。石垣島にはそうした水場が必要になっている。石垣の生き物の豊かさが維持されるためには、かなりギリギリの所に来ている。水共生学の集まりでそういう話が出ていた。

 

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