石垣の人のことが、わかってきた。
石垣の人が少しわかってきた。小田原にいる頃は沖縄の人についてずいぶんと誤解していたようだ。沖縄の人は、南洋的でおおらかで、楽天的、そしてテェーゲーである。こういう通説に惑わされていた。ところが、どうも三線をやっていて、三線に関わる人が、厳しく厳格である。どういうことかと思っていた。石垣で暮らすようになってやっとそのことの本当の意味がわかってきた。石垣の人はすごく相手のことを思いやる人たちのようだ。そのために、自分をテェーゲーに見せようとする。自分が気楽な人間である方が、相手には楽だろうと考える。実は石垣の人たちは繊細でどちらかと言えば、細やかな人たちである。この神経を使うところがすごく奥行きがあって、こちらの心持ちを深く読んでいる。読んだ上で全くそんなことに気づいていないかのように振る舞う。相手のためにテェーゲーに見せようとしている。先日、田んぼで描いていると、雀を追うためにドンドンと音を立てる人がいた。すぐ挨拶に行った。そうしたら、私を気づいていなかったと話される。つまり、ドンドンという音で、追い出そうとしたわけではないと気遣う。
こうした、気使いがすこしづつわかってきた。まずは、漫画的シーサーである。家の入り口になぜ冗談のようなシーサーを置くのかという心理である。普通であれば家の格を表すような立派なシーサーを起きそうなものだろう。そこをあえて、自分が権威的な、威厳を求めていないと言うことを示していると思われる。冗談風のシーサーで気楽で、気さくな家族ですよと表現している。ホテルや病院の前には立派な大理石で作られたシーサーがある。いかにも高価そうである。よくある中国製のようにみえるが、実際にそれなりの価格はするだろう。家の前にああいうものを置く家庭は間違ってもない。家を堅苦しく見せない漫画シーサーである。それは壁に絵を描くのも似たような心理なのかと思われる。シャッターに絵を描くの東京でもよくあるが、あれは店舗だろう。ところが石垣では普通の家庭の壁に絵が描かれていることがある。しかもその絵がサザエさんであったり、ヤッターマンだったりするのだ。
そして、外から見えるように花を飾る。ヤエヤマシタンの盆栽を置く家もあるが、ほとんど花木があふれんばかりに置かれる。ブーゲンビリアやハイビスが多い。ドラセラ、モンステラ、トラノオ、に始まり南米やアフリカの初めて見るような熱帯の観葉植物が不思議な花を咲かせている。外を通る人が楽しんでほしいという思いがある。門で閉じてはいない。文字通りわざわざ、扉や窓を開け放している日もある。家を閉じていると言うより、福を迎え入れるような感じがする。福は外から来る。良いものがやってくるという意識が反映しているのではないだろうか。まさにおもてなし文化である。
石垣の伝統的お墓は大きな前庭付きのものだ。家族がお墓の前庭で食事をする。お墓は小さい家のようなものである。その家の屋根の上にぴょこっと日本風のお墓が乗っている。埋葬の風習はそう簡単には変わらない信仰なのだろうが、あっさりと本土風を取り入れている。それは、ピラミッド型のお墓もあるし、純和風建築のお墓さえある。自らにこだわらない姿勢が徹底している。八重山民謡はそもそも唄だけだったという。その唄は男女の掛け合いが素晴らしいものだ。実に声の重なり合う音楽的調和が美しいものだ。男の声は極めて日常的な声。女の声は高音で独特の切ない声である。ここに琉球王朝から来た音楽担当の役人が三線の伴奏曲をつけたという。琉球王朝では三線音楽を役人の職務とした。女性は三線を弾くことは許されなかった。八重山の唄は三線を見事に受け入れ、世界でも特別と言って良いほどの音楽性を持つことになる。外から来たものを受け入れながら成長する文化がここにもある。
なぜ、こんなに人手不足なのに、沖縄県の平均給与が安いのかである。石垣のファミマの募集が850円で出ている。小田原だと1000円以上だ。小田原よりもさらに人手不足だと思う。給与が安いままの理由は安くても横並びがいいので、なかなか賃金水準の上昇が起きないということらしい。沖縄では正規職員に自分だけがなると言うことを嫌うのだそうだ。店としては高い給与で人の募集などを行い、周りから何か言われかねないと、まわりに気を遣い、特出することを避けるらしい。互いに周りの情勢を気にしすぎるので、高い賃金の募集をかけられないらしい。高くすれば、人は来るが、なぜ周りに合わせないのかという風評が不安。同時に人前で目立つ行為というのも避けたい心理が強い。目立つというのは、よく目立つも、悪く目立つのも、好ましくない心理がある。