辺野古基地問題から学ぶもの
沖縄では辺野古米軍基地拡張について、反対の民意が示された。その翌朝も美しかった辺野古のサンゴの海は土砂で埋め立て続けられている。一瞬たりとも工事は止まることはなかった。アベ政権は県民投票を真摯に聞くと、口にしながらまったくの無視である。この人は人間ロボットだから、誠意のようなものは皆無だ。沖縄県民の反対の意識は選挙のたびにより明確になっている。県民投票の結果はそれを表している。民主主義において、地域住民の明確な意思が、全く無視されるということはあり得ることだろうか。たとえ、アベ政権の政策が正しい選択であるという確信が政府にあるとしても、一時工事を中断して、話し合いを持つというのが最低限の民主政治というものである。そして、普天間基地の危険除去という、政府の主張の意味を沖縄県民と徹底的に話し合う必要があるだろう。
アベ政権が全くの無視をするだろうということは事前に予想された。ここで学んだことは、地方自治と政府の関係である。国の専権事項ということになると、地域住民の声は無視されてよいということになる。核廃棄物の廃棄場をあなたの村に作る。これは国の専権事項である。こう指定された地域は一切の反対ができないということになる。これは独裁主義国といえどもためらうことであろう。日本国全体のためだとして、犠牲を強いられる地域は人権が無視されて、意見さえ主張できないということでいいのだろか。辺野古基地問題を民主主義政治の教訓にしなければならない。住民自治ということが、政治の中でどう位置付けられれば良いのかである。住民が行政に協力するときにだけ、都合よく駆り出される仕組みが民主主義ではない。政府の方針と違うことは必ず起こる。その時どう住民と話し合いを持つかが、大事なのではないか。それは国防であっても同じことである。住民がそっぽを向いたままでは国防など成立するわけがない。
果たして東京に核廃棄物の処理場を作るだろうか。そうしたものは過疎地域の弱い力の地域が選ばれるのが常である。核廃棄物の処理場は選定すらできないでいるのが、50年の原発の歴史である。これが米軍の基地であればどれほどの不都合であっても、属国日本は従わざる得ないのであろうか。こうして力の弱い地域は、意見の主張ができないから、不都合なものが押し付けられつづける。沖縄は日本にとって、別枠なのであろうか。どれほど嫌がるものでも押し付けていい地域と日本国民全体が認識しているのであろうか。私が経験した産業廃棄物の反対運動でも同じである。不都合なものでも誘致しなければ、地域が危ういという意識が根底にある。この意識が不都合なものを誘致するものの倫理観を支える。核廃棄物の受け入れを表明した地域すら過去存在した。
国防は大切なものだ。基地が不要などとは思わない。専守防衛のための軍備はどうあればよいかは、国民的議論を持って研究してゆかなければならない。3つの検討しなければならないことがある。1、平和外交 平和外交が大前提である。銃を突きつけながらの外交ではない。両国民が親しみを持って交流してゆく外交である。互いを助け合う関係を作り上げられるかである。2、専守防衛の軍備 現代の戦争は経済戦争と、情報戦争がまず始まりである。武力的な攻撃は最後の手段となる。経済戦争に備えるということは、エネルギーから食料までの自給体制である。情報戦は米中が衝突しているように、水面下では日本も巻き込まれていることだろう。目在増井情報化社会の中でどのように情報管理をできるか。3、日本国の方角と同盟関係 より広く多様な国との同盟関係を持つことである。それには日本という国家を目指すのかを明確にする必要がある。