多様性の認め合い

   

少数派の人間として生きてきたのだろう。これからも寛容な社会であり、少数者の場所が確保された社会であってほしい。人間を自分の正しさで峻別するようなことだけはやめて欲しい。正しすぎることには何か因縁を付けたくなる性分である。そうかな、違うかもしれないとつい考える癖がある。おかしいと考えたことは自分でやってみることにしている。大抵のことは自分の思い付きがおかしいかったという結果になる。実践は失敗の山である。それでも懲りずにまず疑う事にしている。稲作をやっていれば、正反対のことが両方とも正しいという事を経験する。田んぼの雑草など取ればとるほどいいと思うだろうが、草をとらない方がいいという人もいる。結局は農業というのは生き方なのだと思うしかない。生き方だから迷う訳なのだが、この迷いに迷い、生きているという事が日々の暮らし。こうして迷いながら生きて死んでゆく。このゆらぎのなか、もしかしたらという試みの中に生きる。これが現実の日々の面白さのような気がする。

田んぼではすべての判断が、決めかねるようなものだ。正しさのない面白さがある。作物を作るという事は、上手な人に教われば上手になる。しかし、結果を覚えるというのでは、無限に起こる新しい事態に対応する能力が育たない。未知の不確定のことが日々起こるのが稲作である。だから、自ら観察して、予測して実践してみる。という探求する姿勢の方を大切にしてきた。上手く行かない、収穫が少ないとしてもそのことで気づくことが出来れば、この上なく楽しい。生産物を目的に耕作しているはずが、むしろここから自然の摂理を探る面白さに広がる。有機農業で自給する主たる目的は自然というものを知るという事ではないか。生きるという事を充実させるという事であれば、何もその時々によくできるとかできないなどという事は小さなことなのではなかろうか。自給農業を通して宇宙の摂理のようなものを感じることこそ大切なのではないっだろうか。宇宙の摂理は正しいなどという価値基準で出来ていないようだ。

出来る限り人には教えない。教えられて学ぶという事もあるとは思うが、その人が発見することが一番大切なことだ。教えられなければわからない人には、有機農業は出来ない。農業でわずかな成功をした人は自分の経験的な発見を誰にでも共通の正しさとして伝えたがるものだ。大いに反省をしなければならない。確かに、そうだったでしょう。でも、その正しさは私の正しさで、あなたの正しさではない。害虫と呼ばれる虫が表れたのは近代農法が出来てからだそうだ。江戸時代はどんな虫も害虫とは呼ばなかったそうだ。その場では問題ある虫が、長い目で見たら、役立っているという事もある。害虫と呼び名にある、了見の狭さが気になる。総合性から生まれる自然の摂理に至る道を探す。虫に対して殺虫剤を使わないという前提で考えるだけで、新しい耕作法が生まれる。虫の多様性である。どうにも迷惑なだけだというようなことは、自然界にはあり得ない訳だ。

絵は正しさなど関係がないから、面白いのだ。ところが絵画でさえ正しい絵が存在するかの風潮がある。間違えの少ないような冒険のない絵が増えている気がする。本来の絵は、道の世界を切り開くものだったはずなのに。自分の世界を探し求めるものだったはずなのに。これも芸術を商品化している結果だ。弱まりを抱えている日本では、反論すら許さないような正しさが登場している。多様さを嫌う原因は不安である。人と違うという事の不安。だから少数派を切り捨てたくなるのだ。仮想敵国が日本を攻め滅ぼすだろうという、不安を政府は振りまいている。不安を広げておくことが目的で、不安を解決するどころか、不安を増幅させようとしている。アベ流の明治日本への回帰は、未来社会への展望が持てないからだ。日本人の滅びの姿だ。何か殺虫剤的な特効薬を探すことになる。その焦りが、カジノ法案である。外国人労働者のでたらめな受け入れである。教育の国際競争力化である。農産物の国際競争力である。いま日本が目指さなければならないのは、ここに暮らす人それぞれの、自由で安心できる生き方の確立だと思う。

 

 

 - 身辺雑記