国民的議論の結果

   

原発に関する国民的議論と呼ばれたものは、日本で初めて行おうとした、直接的民主主義の試みであった。政府のやり方は、全く不十分であったが、結果は出た。途中で枠組み自体を変更したり、そもそも前提条件の提示すら良く分からなかった。それでも、随分曲がった形ではあるが、初めての試みが終わり、いよいよ政府のアンケートに基づく今後の方針が出ることになった。大いに期待している。そもそも日本の政治では、国民の意見を尊重するなどと言うことは、一度も無かった。国家の為耐え難きを耐え、しのびがたきをしのぶのが、神代の国からの習い性になっている。お上の御無理ごもっともは、戦後民主主義60年が経過しても、何ら変わっていない。今は経済という論理が最も重視されることに成っている。そのやり方が、実は根本から間違っていたらしいというのが、今回の原発事故である。

国民がこの国のあり方に、一言述べて良いという初めての経験である。まさか、そんなことはあり得ないと、信じがたい思いで、半信半疑のまま総理府に意見を述べさせていただいた。しかし、一応まとまってみると、まるっきり無視できないという現実も出てきたようでもある。今ごろ電力各社では、何で動員をかけて原発推進意見を出さなかったのかと、地団太を踏んで残念がっているだろう。たぶん、今までならやったはずだ。どこかから必ず漏れるので、今回はやりたくともやれなかったという気がする。いずれにしろ、選挙が近付いている。本来であれば、選挙と同時にもう一度国民投票を行うことが望ましい。その時にはどの政党が政権をとるにしろ、その結論に従わなければならない。国民投票を行い丁寧に、エネルギーに関する国民的合意を探るべきだ。そうしないと各党が、玉虫色の案を出して、実行しないという事に成る。

今さらのごとく、民主党では、原発を止めた場合の問題点をあげつらっている。そんなことは承知の上で、出てきた意見である。例えば「原子力が一番安い発電法である。」と言う嘘。今後原発を稼働するとすれば、安全対策は今までのままと言う訳にはいかない。政府も税金を簡単には入れられない。周辺住民も、今までのレベルの補助金では納得しないだろう。さらに、核廃棄物の処理費。保険金など莫大に必要になる。どんな発電法を選択しても、電気料金は日本は高額の国に成らざる得ないことが現実。電気料金を格安にして、企業の国際競争力を付けるという手法を韓国では行い、電力赤字が莫大に成っているそうだ。電力料金ではっきりしたのは、企業は国民の安全より、利益の方に熱心だと言う事だ。確かに日本は、様々な不利条件を抱えているが、同時に有利条件もある。日本人は企業にとっても、大切なもののはずだ。

目立つことは政治家の劣化が急速に進んでいる。予算を立てて国会で決めて、支出をしている。しかし、収入を赤字国債を発行する法案がたなざらしだ。誰の責任と言うより、全政治家の責任である。国民は本来なら全議員をリコールしなければならない。民主主義は妥協である。話し合いである。自分たちの党の選挙に有利なことだけを主張していて、妥協をしない。妥協したかと思えば、3党合意と言う、訳の分からない手法を採った。だから、維新党が出て来るのだ。民主党も自民党の余りの劣化にあきれて登場した。既成政党に期待が出来ない。今回の国民的議論がどのように生かされ、どう扱われるかを、日本の政治の転換点にしてほしい。政治家の劣化が進んだ原因は、政治家の志の中に、国の為と言うものが消えたことにある。滅私奉公が消えて、目立ちたいから政治家に成る人ばかりのようだ。民主的な国家日本と言うものをどう考えるか。この事についての国民的議論を起こすべきだ。

 - Peace Cafe