原発事故報道の評価
報道が真実を伝えなかったことが、幸いしたというものを読んだ。御蔭でパニックが起きなかったというのだ。真実を知らなかった方が良かった。そう言うことがあるのか。魚住昭氏が、週刊現代に書かれた記事である。以下ー―
もし新聞やテレビがリアルタイムで官邸の混乱ぶりや「最悪のシナリオ」の全容を報じていたらどうなっていたか。たぶん首都圏の鉄道は止まり、逃げまどう人々と車が道路からあふれて死傷者も出ていただろう。
幸いなことにそうはならなかった。新聞社やテレビ局が「最悪のシナリオ」を充分承知しながらストレートな報道を手控えたからだ。パニックを引き起こしてはいけないという自己抑制機能が働いたのである。
私は胸をなで下ろした。と同時に、大メディアが抱える根源的な矛盾に突き当たって愕然とした。社会が破局に直面したとき、メディアは重大情報をストレートには報じられない…。(以上引用)
こういう見方もあるのか、本当にそうなのかということを、深刻に考えた。つまり、管氏がうろたえたように、真実原発が爆発していたらどうなっていたのか。逃げる機会を失った訳だ。報道は爆発の可能性を、想像しながらもそれを報道したらまずい。という判断をしたと言っていいのだろうか。魚住氏は元共同通信の記者だそうだから、報道の様子についてはある程度把握できるだろう。すると、今後は新聞社テレビ報道の言うことは、信じてはいけないということに成る。「最悪のシナリオ」は各々が判断するしかないということだ。そうしなければ、のんきにしているうちに逃げて生き延びるチャンスを失う訳だ。今現在も、パニックを起こさないための、真実ではない報道されているとしなければならない。重大情報をストレートには報じられない・・・。
報道の姿勢がそうであったとすれば、間違った考え方としか思えない。報道がこうなってしまったのは、批判精神を失ったからだ。政府の指示におもねる報道を続けてきたがために、大報道が国民の地平に立てなくなっている。常日頃、立場が国民とともにあれば、真実を伝えたとしてもパニックは防げる。いわば続出した御用学者と同じことだ。パニック被害は出なかったかもしれないが、真実を知らされなかったがために、多量の放射能を浴びてしまった人は、続出してしまった。あの20ミリシーベルトを支えたのはテレビである。あのときも、もし1ミリシーベルトを言えば、福島の子供たちは学校に行けなくなる。転校するなど大変なことに成る。そのことの心的被害の方が大きいと主張する傾向があった。何とか無難に、大ごとにせず。結局は今に成って、1ミリである。飯館村などはまるで棄民政策である。村長は気付いているのか、どうか。コメントがおかしい。
報道がこの間連発したのが、「風評」という言葉である。すり替え用語である。福島の物産を風評被害から守れ、いかにも善意として、福島物産館で買い物する人たちを報道し続けた。そうした報道がまともであるとは思えない。問題は放射能の真実である。放射能を安全である如く、善意で乗りきろうなど、まるで馬鹿げている。報道が真実を伝えないものと、明確になって以来、ネット情報は悪い方向に、一気に進んだ感じを受ける。ネットでは、発信するものの姿勢が分からない場合が多い。いわゆる流言飛語が飛び交う。これをどうかぎわけるかの方が重要になる。不安は増幅する。不安が不安を拾い始める。やはり、まともな真実を伝える、報道は必要なのだ。結局報道はパニックを避けるためと考えたのではなく、自己保身だけを目標に動いていたように私には見える。報道は真実を伝えることに、命がけでなければならない。それがいざという時の、頼りに成る報道である。