原発を乗り越えられるか。
福島原発事故のシンポジュウムは6月19日13時からとに成った。場所は現在探している。一緒に開催してくれる人を募集しています。飯館村の状況を伺いながら、小田原に暮らすものは何をやるべきか。何が出来るのか。そんなことを考える場にしたい。小田原も被災地の一つになった。原発事故は今海を通して、空気を通して、全世界に広がっている。小田原の汚染を踏まえて、「原発は乗り越えられるのか。」を模索したいと思う。農の会での実行委員会の話し合いでは、エネルギーに依存し大量消費する暮らしの方が、問題であったのではないか。30%のエネルギーの削減は、生活の見直しで可能な範囲である。むしろ、脱化石燃料という意味で、自然エネルギーなのではないか。循環型社会に向かうためには、暮らしそのものを考えなければならない。今回福島の事故から3〇〇キロ離れた小田原で、汚染がこのタイミングで表面化したことは、福島で暮らす人とつながったことである。原発が他人事ではなくなった。被害者としてどのようにこの事態に立ち向かわなくてはいけないのか。
飯館村の状況に詳しい、小澤祥司氏。いわき市の橋本宙八氏、川内村の風見マサイ氏に来ていただくことが出来る。小田原のお茶生産者からも発言をお願いしたいと思っている。大地に根ざして生きている人間の眼で、この原発事故がどう見えているか。生の声を聞かせてもらいたいと考えている。福島の地べたに根付いて生きる人間。そこで暮らしてきて、避難しなくてはならなくなった人間の思い。汚染された場所に踏みとどまっても、その場所に生きようという人間の生の思い。それぞれの状況を伺いながら、次の時代への転換の機会として、この大事故を捉えなければならないと考える。原爆を落とされた国、日本。原発の大事故を起こしてしまった国、日本。この国に生きるものとして、人類全体の為に、次の暮しの姿を提案する使命が与えられているような気がする。もしこの事態でも懲りずに原発つしがみつくようでは、人類そのものがそう遠くない内に死に絶えることに成るだろう。
前向きな思いにはなかなかなれないできたが、岩越さんが立ちあがって手を挙げてくれた。この機会に、土とともに生きようという人間の希望の火に、風を送り込みたい。原子力エネルギーを取り巻く、膨大な利権の世界を思うと、市民に出来ることなど、いかにも限られているかに見える。おおくの被害者がほとぼりのさめること、やり過ごすことでかわそうという心理に陥る。しかし、その土地に暮らしているということは、何にも代えがたい揺るがせない権利である。ほんらい、誰もこの憲法で保障された、権利を侵害は出来ない。今福島で起きている強制退去は、憲法違反だという人がいるそうだ。今回の政府の事故対応は、棄民政策が見え隠れしている。福島の子供たち、特に飯館周辺の子供たちには明確にリスクがある。全体のためには仕方がないと押し付けられて来てしまった放射能のリスク。権力というもののあらわな自己保身の姿が見える。
やっと19日に卵とお茶と土壌を放射能の測定に送った。次から次に測定して欲しいという声が届いている。ともかく、3件ということなので、どこの土が良いかということになった。汚染物質が降り注いだ裸地でないと、状況が正しく測定できない。お茶畑に近いところでそういう場所を探して、表土2から3センチを1キロ採取した。測定は、恣意的なものであってはならない。どこなら高くなっているか、地形や風向きで分かる人もいる。逆を言えば、低く出そうと思えば出せるものでもある。行政というものは、基本的に低く出ればいいという気持で測定を行うのだろう。ということは、各自が測定をしない限り、安心というものは得られない。そこに暮らし、そこで出来るものを食べる。市民の測定運動をはじめなければならない。そして測定費用を東電に要求してゆく。こんなことに成ってしまえば、農家が農地の汚染状況を測定したいというのは当たり前のことだ。子供の親が学校の測定をしたいというのは普通のことだ。食べ物を売る者、教育に携わる者の責任でもある。