臨時国会閉会、その議論は。

   

菅改造内閣として初の国会となった臨時国会で、政府提出法案の成立率は過去10年間で最低の37・8%にとどまった。菅首相が掲げた「熟議の国会」には程遠い。ねじれどころか、ねじ切れた国会であった。与野党の議席が衆参で逆転しているという状態は、両者で激論が始まって普通である。ところが激論どころか話し合いすらできなかった。政権が変わることで、いくらかましな国会になるかと思ったが、むしろひどい状態になってしまった。与野党が入れ替わる議会というのは、悪くないと思ったのだが、議員はひたすら選挙に走るようになるだけだ。政策も人気とりの選挙目当てのものばかり目立つ。消費税のように国民が飲み込みにくいことになると、棚上げするだけのようだ。年金やら保険のように負担増加が伴うものも、口にしにくくなる。

管総理大臣は補正予算案について、十分議論を尽くしたので、国民の暮らしの為に予算案を早急に通してほしいと発言していた。この人の熟議というのはこんなものであった。私は何度もテレビ中継で予算委員会のを見せてもらったが、議論など一度も見ていない。野党も野党である。きちっとした政策議論をしないのか。小沢・小沢。尖閣・尖閣。どうも国会での議論というものは違うらしい。何故、仕分けの場で行うような議論を国会の場で出来ないのだろう。補正予算の細部をとことん議論をする。そして無駄を省き、緊急要素を加え、より良い補正予算にしてゆく。当たり前のことではないか。国会で議論をするということは、日本の方角を正すということである。野党とか、与党とか、そういう区分けでもない。確かに民主主義は数である。選挙で選ばれたのだから、議論をして意見を変える必要などないという考え方もある。しかし、自民党も民主党も議論を出来る範囲の政策に見えるのだから、議論の余地はあるだろう。

補正予算では問題山済みだろう。日本の農業の状況は一刻の猶予も出来ない危機。戸別補償で乗り切れるとは到底思えない。何故、国会でそうした議論が出来ないのだろうか。海兵隊の辺野古への移設。子供手当や、国保の方向や、消費税論議。語りつくせない問題は他にもいくらでもある。それを国会でぶつけ合い、良い方向を見出してゆく。そういう議論はできないのだろうか。議論をするということは自分の問題点に気づくということである。国民向けに自分の主張をするということではない。話し合ったところで一致点を見出すことはできない。このように決めつけているようだ。議論をする前に諦めている。では各政党内では十分の議論があるのか。これがまた見えない。来年度予算に対する。民主党の意見が出てきた。「子供手当に所得制限は設けないでほしい。」こう言った様々意見である。私が知りたいのは、その結論に至る議論である。何故そういう結論になったかの過程にこそ、民主党の考え方があるはずだ。

そういう議論の場を見せる、政党の仕組みがなっていないのではないだろうか。自民党は当然そうだろうが、民主党も、派閥とか、年功序列とか、世間での力関係とか。議論とは違うところで事が決められているような気がしてならない。民主主義はどこの誰の意見であれ一人の意見である。そういう外に見える議論が出来ないものであろうか。民主主義を嫌がる体質が日本の政治にはあるようだ。国会が形式的なものになり機能しない点では、中国や北朝鮮と大差がない。自分と違うものを認め合う。批判をする側となると、モンスター化する。あれこれあげつらう、あらさがしに終始する。建設的に問題を見直す提案型の議論提起が出来ない。「子供手当に所得制限を求める。」こういう考えの人が、どういう論拠であるのか、両者で深い議論をしてくれる。そのことで子供手当というものが、どういうものなのか国民に見えてくるはずだ。

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