価格の意味
値引き競争がデフレを招くと、言う話が重要な事のように騒がれている。物に値段があると言うことは、とても難しい事だ。笹村農鶏園の玄米卵は、55円である。私の絵は号2万円である。このように決めた根拠はいわく言いがたい。この価格は変えない。差し上げてもいいものであるが、一応販売している。そこはなかなか難しいのだが、一応の価格である。差し上げると、要らないのにもらっていって、捨ててしまう人も居ないとは限らない。本当は、その人が相応しいと考える価格を、置いていってくれれば、それが一番いいのかもわからない。否、一番良いとは到底いかない。頼岳寺の三沢先生が「お布施はもらってあげているんだよ。」こういわれた。高校一年生の私にはまだその意味は良く分からなかった。坊さんは人を騙して、お金を巻き上げていると思っていた。馬鹿な事にそういう手紙を三沢先生に書いたのだ。
値引きと言う以上、本来の価格がある。本来の価格とはなんだろう。普通、原価計算とかがある。当然、労働の対価も入る。この原価計算や労働という物の考え方は、実は多様である。好きな事以外出来るだけやらないことにしている。楽しみで労働している1時間に、お金をもらうというのも変だ。小学生が、デズニーランドに遊びに行くのに、労賃はない。鶏を飼うのを止めろと言われたら困る。そういう諸先輩は沢山いるが、大抵は道楽と言う事で、なかなか趣味と実益とはいかない。むかしの、実用本は大抵趣味と実益という副題があった。趣味と実益の万年青栽培。そんな感じだ。万年青一株で家が建った。そういう信じられないような、時代だってあったのだ。万年青の本来の価値など、まるでない。まるでないものに、尾ひれがついて、坊主丸儲けと同じような事になる。ブランドなどという物は、おおよそそういうものだと思っている。コマーシャル。こう言う費用も原価に入る。
中国でゴッホの贋作というか、模写というかそういうものが、850円とかで売られている。とても怒っている人がいるが、何がいけないのかが良くわからない。私の絵など贋作がでる訳が無いが、役に立つならどのように真似しようがかまわない。写真を取る事すら許さないとか、そういう意味がわからない。何の為に絵を書いているのだろう。少なくともゴッホなら、絶対に怒らなかった。ゴッホは絵によって人間を救済したいと考えていた。牧師を志した人だ。自分の絵が誰の役にも立たないらしいと言う事に絶望して、命を絶った。人類の為に描いた絵なら、どう利用されようがかまわないはずだ。そして今になって、ゴッホの絵は人類の役に立っている。それの贋作を作って、人の役に立てようと言う事は悪い事ではない。ただし、テレビに映るゴッホの贋作は似ているだけで、どうにもひどいものだ。
物の価格と価値は違う。ゴッホの絵が値上がりしてゆくのは、価格である。価値は唯一の信奉者の弟のテオに捨てられたときから変らない。価格は必要な人に必要なものが流れる、便利な手段なのだろう。何故、値引き競争になるかは簡単なことだ。高ければ買いたくないような、どうでもいいレベルのものだからだ。80円の缶ジュースと120円の缶ジュースが同じ会社の製品である。同じであるだけでなく、出来るだけ飲まないほうがいいようなものである。ゆたゆた農園で作った、みかんジュースは一家に必要な価格で買いたい。農園が継続できる価格で買いたい。そうも行かないので、何となくつけたような、55円の卵と同じような事になる。デフレスパイラルとか、実に怖ろしげな名前があるが、ありがたいだけで何がいけないのだろう。
昨日の自給作業:野菜苗の植え付け3時間 累計時間:17時間