まちなか市場
街づくりと言う言葉は、少し違っている。その土台となっている、周辺部が含まれて居ない語感がある。他に適当な言葉がないので、いちおうそこに周辺農村部まで含めて、人間の活動している所は、全部含んで、街づくりと言う事になってはいる。それは、「小田原では」とみんなが話すとき、山北に住んでいた自分がはずれたような寂しい感じがした。それと似ている。本来的には街とは、商店や行政施設の集まる。中心市街地の事だろう。山奥に暮らしていたときには、街に行く。と言う事自体が、動物園に行くとか、遊園地に行くとか、と同じで目的化していた。今の時代連日がお祭りのような暮らしだから、晴れの日も、日常の暮らしの日も境がない。街に行くと言う大仕事の盛り上がりが無いのは当然だ。舟原と言う周辺農村部の事を考える時も、街づくりだから違和感がある。地域づくり、と言う意味で使われているのだろう。
第3回「まちなか市場」と言う小田原の商店街と地場の産品の市が、開催された。小田原郵便局の向かいのあたりの道路沿いに分散して開かれた。みんなの力が良い形で集まって、とても、楽しい市場が出来たとおもう。みんなと言うのは、野菜やお米の生産者もあれば、加工品を作った人。バラを売った人。菜の花を売った人。市場で販売にあたった人でもある。そして、買った人でもある。つまり、普通なら、お客さんがただの消費者でなくなった。買ってくれた人となるのだが、買うと言う行為が、実は市場と言う楽しみを作り上げている。おかしなことになるが買う人が良くなければ、良い市場は出来ない。農の会の宅配と同じことだ。今回の市場はそんな楽しさを少しだけ感じさせてくれた。「小田原は良い所だ。暮らし良いし。食べ物は美味しい。」そんな言葉がお互いに自然に出るような市場になった。この市場は商店街の方々が中心に居て、その周辺に農の会のような存在が、十幾つ位が寄り添う形になっている。
街の商店が昔ほど繁盛しない。これは小田原だけではない。街でものを買うという、行為自体が大きく変化した。小田原にもよい画材やさんが3軒ある。申し訳ないが、そこで買う事はほとんどない。例えば紙を買うのは、特殊なものになる。間違いなく販売していない。では絵具は、筆は、と成ってどれもあまりに特殊だ。あんなに揃ったお店であっても、実は置いていない。多分取り寄せてもらうことも、なかなか困難なはずだ。専門店が、20万都市では成立が難しい。街が衰退してきている理由は出尽くしていて、その論議で良いのだが。大切なこれからの事である。農家が資産家で、利益の出ない農業を続けているのと、ほぼ同じ構造がある。貸し店舗や、マンション経営。商店が農業と違うのは、日々の切実な競争の中で成立している。入れ替わりは激しい。20年すれば商店が変わっていて、普通の事である。銀座や渋谷を見ればそうである。
まちなか市場と同様な試みは、小田原でも何度かあった。しかし、商店の意識や目的と出店の出展者の意識の、ズレが広がって、空気が悪くなり終わった。周辺部の生産者が街の商店街の方々に、お世話になっている構図。出店料も無しでやってくれている。出店料で運営がなされるようでなければ、継続は出来ないと思っている。この試みの成功部分は、街の楽しさの再確認なのだろう。地域の地場産品の充実にかかっている。この土地にしかないもの。あそこに行かなければ買えない、もの。街の商店がそうした、地場の流通と切り離されている事が、大きな課題なのだ。JAの大店舗が郊外に出来る。これとは違った、地場産品の細かな流れが「まちなか」にあってもいい。何しろ、多様でなければこれからの時代には、受け入れられないだろう。