占いで町興し
占いが、またぞろ流行っているらしい。占いで町興しが成功した地域が紹介されていた。テレビでも今日の運勢とか言いながら、天気予報と同列に扱っている。おひつじ座の人は☆3つとか、言うのか言わないのかしらないが、腹が立ってすぐチャンネルを変える。占いを、当るも当たらぬも八卦、冗談のようなものを放送で流すなど、放送の冗談化の一断面である。気軽な冗談だからそう目くじらを立てなさんな、と言うような隙間に、ドンドン入り込んできている。各局の今日のラッキーカラーは同じなのだろうか。日本テレビの方が当るとか、そういうのはあるのだろうか。占いが当らないとか、占いがいけないとか、そういう話ではない。テレビでやれるようなものではない。まともな占いなら、個人的なものに違いない。大雑把な、十束一からげの、細木氏監修とか言うようなものではない。そういえば、細木氏はテレビで見なくなって何かホッとした。占いがどこかに当たったのだろうか。朝青龍支持者だったが。今日の事態は占いに出ていたのだろうか。
中学生の時に原君から借りて、授業中に一週間で読んだ吉川英二作「宮本武蔵」では、下がり松の決闘の前に神社の前を通りかかり、一瞬手を合わそうとする。その弱い心を振り払って通り過ぎる所があった。困った時の神頼みだけでなく、目に見えない何かに依存する気持ちを、剣豪と同じく振り向かないようにしたい、と子供心に同感した。占い師に占ってもらうと言うのは、当然、新しい事で無く。明治時代ぐらいの人には、日常の事だったらしい。これがお狐様とか、お犬様とか、巫女による神降ろしとか。江戸時代から存在した、暗闇的世界に繋がっていた。わざわざオドロオドロシイ世界に、一族で沈むことで、何かを成し遂げようとする、暗黒。1950年代まではそれなりに、そういう世界が残っていた。身近な人たちが、一般にその怖ろしげな、おどろおどろしい世界の演出に心を侵食されていた。本当に当るんだから、死んだお父さんが来てくれたんだ。そう言う事が普通の会話に時折登場していた。
ところが、最近の占いの流行は実は人生相談らしい。剣豪の時代とはだいぶ違っている。時々、養鶏場の見学に見える方も、養鶏をやりたいというより、人生相談に来たのかなと思える事もある。そういう社会状況なのかも知れない。突然、「養鶏がやれるでしょうか。」こう言う事を聞かれても、占い師でも無い限り、わからなくて当たり前だろう。そう言う事はやる人が決める以外にない。やれなくてもやりたいから私はやっている。占い師になるための、講習があるらしい。相談者タイプ別の人の励まし方を研究している。励ましにならないような占いは、最近の占いではないらしい。このてん、あなたは20歳の寿命です。不幸の占いとは大違いである。足裏占いというので、調査会社と組んで、莫大な祈祷料を巻き上げると言うのがあった。占いと新興宗教は紙一重の場合がある。占い同様、現世利益の宗教も大嫌いだ。結局は、人生相談をする気持ち、何かに頼ろうと言う気持ちが嫌いなのだ。
占い師であると言う前提なら何でも言える。赤い服を着れば、お金が溜まる。と発言しても許される。養鶏が可能だと言ったのにと言う事にならない。この無責任さ加減が今の社会にちょうどはまっている。と言いながら、占いというものが当たらない。などとはまったく思っていない。実は結構当たる人が居ると思っている。高島易断のもととなった高島嘉右衛門は鉄道事業で伊藤博文と親しくなり、政商として明治期活躍する。その事業は全て監獄で学んだ易経による八卦にしたがっていたという。伊藤博文の暗殺を占ったが、伊藤がそれに従わなかったため、以後占いをやめたという。占い師も自らが、思い通りになって居ないともう一つおかしい。自分は占えないなどと言うのでは、どうも役に立たない占いである。