兼藤忍「土着」展
水彩画のカテゴリーに入れるが、陶芸を材料とした、現代美術の作品展だ。代々木にある「千空間」という画廊で5月20日まで開かれている。兼藤忍さんは、松田に住まわれている。谷口雅邦氏とのコラボレーション展。兼藤さんの前回の個展では、千手観音ならぬ、千指観音が魅力的だった。今回の作品でも継続する「念の作品」群だと思っている。念は思いであり、祈りではあるが、もう少し原初的なものを意味しているのではないか。見方を変えてしまえば、きわめて宗教的世界である。あえて名前を付ければ、苔教である。縄文人の信仰とはこんな感触なのかと、思わせる。日本人にわずかに伝わっている、巨木信仰。その同じ気持ちが、微細な苔に向かっている。範疇を広げたとしても、羊歯植物までだろう。植物信仰の世界。
前回は植物紋となずけた展覧会だったが、植物ではあるが原初的な苔の世界だと思った。何故苔なのかが、兼藤作品の祈りを考えてゆく上で、重要なことだ。蔓延し、増幅し、輪廻する。この繰り返しのイメージが、時間的には無限への作品の連なる。それゆえに、作品には、連続繰り返しをイメージするものが多い。大から小へ、小から大へと、ウエーブするように、置かれている。時間の連なりが渦巻状になって無限を表わす。その渦巻きの動きが、同時に生命の原点に、繋がっている。それも爬虫類的で、切られたトカゲの尻尾に残る生命が、永遠に生きてうごめいているような、不思議な命感覚だ。命の断面を見せている。その大きな要素が、表面性にある。一見溶岩を思わせる。気泡のような表面が作られていて、その気泡が大きくなり、穴にも泡にもなる。ふつふつと燃えたぎるような、同時に、もろく淡く消え去るような印象。
今回はつるし雛のように釣られた作品が出てきた。正に祈りの展開だ。以前、御宅に伺って、祭壇飾りの作品群を見せていただいた時には、思わず、ご本尊に礼拝をしてしまった。後づさりしてしまう。幻術的世界が展開されていた。そのひな壇に飾られていた世界が、つるし雛のように釣り下げられた。同時に祈りが開放されたように、明るくなった気もする。何故だろう。つるし雛に成ると同時に平面化した。以前からの、形の半球の丸みと、表面性へのこだわりが、何処でどう繋がってつるし雛になったのか。これは作品の転換であるのかもしれない。余ったピースを紐で連ねて見る。案外これが面白かったのだろう。何しろ、この長さが、2回から1回の床までの長さがある。何でもこうして、連ねなくては成らないのだろう。
このピースにも小さな気泡が、無限に空いている。この一つ一つの穴は無限でなければ我慢できない体質。というように空いている。ピースが球から平らになった理由を伺ったところ。これも大きな球の一部だという。それの方が、気泡の穴が開けやすいという。ここの気持ちは不思議だし、作家の作品との意味の連なりがあると思う。技術的に言えば、球状のものに穴を開ける作業と、平面状のものに穴を開ける作業では、どう考えても平面に空ける方が楽だ。しかし、作家には球でなければ捉えられない穴なのだ。なるほど、非常に合点がいった。球が砕け散るような、イメージ。球の一部としてのピース。だからピースは、幾重にも連なり吊り下げられなければ成らなかった。使ったものしか判らないだろうが、この中に土釜がある。不気味に笑っているのだが、この作家の実用の器というのは、どれほど面白いかが良くわかる。しかし、誰にもそれが土釜であるとは判らないだろう。