星崎千恵子個展を見に行く。
目黒の「Klamer」で開かれていた星崎千恵子展。星崎さんの絵に出合ってだいぶ長くなった。10年にもなるだろうか。銀座の4丁目にある画廊で、偶然見かけたのが最初だった。トレシングペーパーを使った、裏側から色を透き通らす、微妙な作品を出されていた。ともかく、ずば抜けた感性を感じた。アイデアが前面に出てしまうような方法に、コントロールされない強い感性を思った。ただ、変だけど、普通に描いた絵も見たいな。等と感じた。そのときは、小田原の方などとはつゆとも知らず。その後何度か個展を見せていただき、ついには水彩人にも招待で並べていただいただくことになった。星崎さんの絵は生きている星崎さんそのもので、そう言う事ができる人は数少ない。生きている生の絵だ。星崎さんの現在の絵ずらだけで言えば、見たことあるような、ある意味常識的な、抽象画だ。所が、これが所謂抽象画では、全くない。具象も具象、スーパーリアリズムと言ってもいい。
絵画における視覚と言うものを、どのスパンで切り取るか。更に分析的にあえていえば、視覚をつかさどる、どの機能に重点を置いて、見ているのかだ。例えば色というものを、視覚の中心に置けば、他の形とか、動きとか、は見えにくくなる。物の表面性に着目すれば、触覚的な見え方になる。ムーブマンを捉えれば、次の動きや、前の動きまで見ようとする。そうした分析的に言えば、星崎さんは生命感を、命の動き出そうとして言う姿を、見ている。もしかしたら、青虫が、キャベツの葉で、何処から食べようかとして居る時の視覚といえばいいか。農業の目は、この目に近い。芽が動き出したかな。稲の種籾を浸種して居る時、毎日水を替える。このとき動き出そうとする、胚芽を眺める目は、わずかに膨らんだ、鳩胸状態まで来た。この微妙な動きを見落とさないようにして、いいタイミングで、冷蔵庫に入れる。確かに、すごいパワーを感ずる生命の躍動があるのだが、見える人だけに見える。
命の営みは、全て見ようとする人だけに見える。そんなある視点がある。生きている人間を、自分というもののを描くという時に、、、、ちょっと待て、そうだ、星崎さんは自分ばかり描いているのだ。自分の鼓動を脈診しているようなのだ。植物の脈を見ようとして、自分に反映している、自分の鼓動を聞いている。だから、実に生々しい絵だ。様相はオシャレでいかにも現代風なのだが、ある意味絵馬のようなあるいは、アルタミアの洞窟画のように、呪術的ともいえる。命の祈り、
星崎さんは会場で、終始腰が痛かった話をしていた。腰が痛かったのだが、どうやって直したかを話しているのだ。それは絵の事に、直接的に触れて欲しくないという、複雑なシャイな気持ちだと思うのだけど。実は、腰が痛かったと絵に描いてあると言う事を言われているのだ。それが、やっと直ってくる仮定が描いてあると、そう言われているのだ。きわめて私的な、プライベートな絵画だから、恥ずかしくて人に見せたいけど、見せたくない。そういう絵だ。何故こんな絵が生れたのか不思議なことだが、星崎さんがそうした人だったとしか言い様がない。今生命の誕生を、発芽を中心に見ているようだが、花咲き実るときをきっと描くことになるだろう。どんな展開になるのか、それを思うだけで、もう次の絵を見せてもらいたくなる。