南海大地震警戒情報

   



 宮崎県で8月8日震度6弱の揺れを観測したマグニチュード7.1の地震で、気象庁は南海トラフ地震の想定震源域では大規模地震が発生する可能性がふだんと比べて高まっている。南海トラフ地震臨時情報を出して、1週間は地震への備えを改めて確認してほしいと呼びかけた。

 多分巨大地震は無いだろうと思いながらも、どこかで気がかりな一週間を過ごした。一応、石垣島は南海トラフ大地震の影響はない地域なので、直接の揺れは心配ないのだが、津波については、考えておかなければならない。小田原の方が不安な場所だと思っていたところ、小田原でも大きな地震が続いて起きた。南海トラフとは関係がないと言うが、不安は拭えない。

 梅雨末期の大雨に始まり、地震台風と相次いで大きな自然災害が続いている。大丈夫だと、自分には大きな災害は来ないと思い込んでいる。楽観的な性格のせいで、安易に考えているのだが、さすがに何か起こりそうな気がして、準備だけはしなければならないという気持ちになっている。

 この暑さも何か悪いことの始まりのような気がして成らない。何しろ石垣島は暑い。海水温が高くなり、海風が吹いても涼しくならないようだ。海水温が高いと言うことは、大型台風が発生すると言うことでもある。5号、6号、7号と台風は、石垣島には来ない形であったが、何時石垣島に向かって来るような巨大台風が起こらないとは限らない。

 今回の南海トラフの警戒情報は空振りに終わった。空振りに終わったのは当然と言えば当然なことでである。当たることはまず無い警報を出したのだ。この一週間に大地震が起こる可能性は高まったとは言え、せいぜい1%ぐらいだろう。
 99%は来ない確立のはずだ。1%でも一週間の間に来る可能性があるのであれば、警報を出すレベルということになる。確かに100会計法を出して、1回だけでも的中する予報であれば、それはそれですごいことではある。99回の外れを考えなければである。

 たぶん1%とか確率が分るだけの情報も無ければ、データーも蓄積されていないのだろう。まだ地震予知はその程度のことだ。おかしな雲が出たとか、水の様子が変ったとか、ナマズが騒いでいるとか、そ言うこととたいして変らない地震予知のレベルだと思って置いた方が良い。

 だから、私はないだろうの方が強かったが、一週間経ったからと言って、何も状況は変らない。1%が、0.9%になったからと言って、似たようなものだ。しかし世間の心理的なものは変る。旅行を取りやめた人も、じゃあー出掛けようかと言うことになるのだろう。

 問題は次の地震警報の発令である。今回ほど注意喚起されないだろう。また来ないという方向に傾くはずだ。それが何度か繰り返されれば、もう誰も来ない方向で考えるようになる。狼少年になる。その頃に大地震は起こるのではないだろうか。どんなことにも人間は都合良い方向に慣れる。

 結局の所、人間は慣れて受け入れるほか無いわけだ。例えそれが死であっても受け入れるほか無い。最悪のことも受け入れて、今日を十分に生きるということになる。南海トラフ大地震は人間が死を避けられないのと同じで、必ず来る。過去が証明していることだ。
 
 それでも人間はまだ大丈夫なのだから、自分たちで自分たちの暮らしを何とかしなければならない。暮らしの方が勝手に危うくなっている。大災害が起きたときに政府など何もしてくれないと考えておかなければならない。菅元総理大臣の言うとおり、自助努力である。

 食べ物は自分で確保しなければ、安心できない時代が来ている。これも災害のようなものだろう。南海トラフ地震とどちらが咲に怒るだろうか。確立としては、似たようなものだ、いつか必ず起こることは間違いが無いが、それを何時とは言えないだけだ。

 日本列島にたどり着いた日本人のご先祖達は、災害の頻発するこの島が行き止まりで、もうこの先逃げ延びる場所もなく、何とかここでやるほか無かったのだろう。縄文人がこの場所で栗を栽培して、貝などの海産物を食べて生き延びたことは、すごい冒険だったのだろう。

 阿蘇の大噴火で一度は滅びかけたこともあった。富士山の噴火にも悩まされた。大きな津波にも何度も襲われた。多分巨大台風で全滅したこともあったに違いない。食料飢饉にも、何度も教われたはずだ。それでもこの地を離れることなく、日本人が生き続けてきた。

 民族の大移動というものが、世界では繰返し起きたようだから、日本という島国に閉じこもるように、生き延びようとしたことで、それなりにしぶとい、日本人が生まれてきたのだろう。そう思えば、南海トラフ警戒情報の空振りもこれからも繰り返され、慣れて行く。

 「ダメでもいいじゃん」と呪文をつぶやくことだ。それで今やれることを考える。もしやれることがなければ、諦めて受け入れる。不安にさいなまれて毎日を生きるよりも、死ぬことを認めて、受け入れれば、何が起ころうとも同じことである。

 やはり、問題はその日が来るまでの一日、一日のことである。その日の準備が済んだら、その日があることは、しっかりと認識して、その日のことに煩わされないことだ。仕方がないことで惑
わされてもだめだ。園にまでの一日が台無しになってしまう。

 そう覚悟して、今日一日に専念する。すべてが消えて無くなるとしても、今日一日自分が精一杯、絵を描けると言うことはある。その充実の中に生きる事ができることをありがたいと思う。ただただこの一日を、一刻一刻をおろそかに出来ないと言う事だ。

 南海トラフ警戒情報は、あらためて自分の今日一日の大切さを、思い起こさせてくれた。幸い来なかっただけのことだ。しかし、大災害が来るからと言って、今日一日の自給農業も止めてはならない。例えそれがすべて流されてしまうものであれ、今日一日は変らない。

 岸田氏のデタラメな無責任な政治を見れば、戦争を呼び込もうとしているかのようだ。自分の保身のために、アメリカに媚びを売り、自民党の極右勢力のご機嫌を伺い、日本の未来など少しも考えていなかった。道徳のある経済どころか、不道徳の政治家の筆頭だった。

 この時代はまさに自助努力の時代である。国や行政は何もやってくれるとは考えない。何があっても自分が生き残るつもりで、自給農業ののぼたん農園を作り上げる。このことが必ず未来にある、次の社会に繋がることだと分っている。例え消えてなくなるものであっても、それは同じことだ。

 

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