世界は危うい所に来ている。

日本の経済は衰退を始めている。それはどうも日本だけではない。多くの国が問題を抱えて、抜け出ることができないでいる。戦争をしているロシアやイスラエルは戦争を止めることすら出来なくなっている。世界は何か末期的な状況に進んでいるのではないかと、不安が募る。
それは資本主義経済が行き着く先の自明の事なのかもしれない。競争に負けまい。競争に負けると経済が破綻する。何としても相手を蹴落とそう。そういう余裕を失った、経済競争の限界が迫っているのだと思う。先進国一般の人口減少は、その表れと見ていいのだろう。環境汚染、気候変動、もう人間がコントロールできないところに来ている。
こういう悪い状況の社会で、一人一人はどのように生きる事ができるのかを考えてみたい。競争経済の社会から降りるほか無いのではないだろうか。社会全体を何とかしなければ、ならないと言うのは確かにあるのだが、普通の人間がそんな大それた事を考えれば、絶望するほかない。
自分の動ける範囲のことで、出来ることの範囲で、どんな生き方が出来るのか。自分にとって何が良いものなのかを考えていきる他ない。社会を良い方向に変えるというようなことを考えても、不可能なところまで社会は悪くなっている。そんなことよりも、自分のまわりを変えることを考えた方が良い。
社会の最悪の状況とは、倫理を失い始めた社会と言うことである。政府自体が衰退の焦りの中で、拝金主義にとりつかれている。そのために社会倫理というものが消えたのだろう。お金がなければ困ると言うことはあるが、お金にす張られてしまうのは情けないことだ。
国民一般が、お金の価値以外に、生きる価値があることを見付けられない人間になり始めている。一方で大半の日本人はむしろ優しい人間になった。その優しい競争を降りようという日本人が苦しんでいる。政府は人間を無理な競争に駆り立てようとしている。この間違いに気付く必要がある。
身体を動かして、自分の生きるに直結する作務を捜すことでは無いかと考えている。わかり合えるもので、競争のない場を作り出し、助け合うことではないだろうか。その小さな繋がりの中で、人間である事を維持して行くことが大切なのだと思う。
先日、ネットで読んだ記事に、ゴミ拾い活動をする人のことが出ていた。その人は自分の健康のためにと、最初は散歩を始めた。それならばとゴミ拾いを始めたのだそうだ。身体をこごめるから、散歩だけより運動になると考えたのだそうだ。
散歩をしながらゴミを拾っている。それは素晴らしい奉仕活動である。所がその人はあくまで自分の健康法としてゴミ拾いをしている。ゴミを拾う動きが良い体操になると言われていた。毎日自分の家の前をゴミ拾いをしてくれている人を見て、ありがとうございます。ご苦労様です。声をかけてくれる。それでまた元気を貰う事ができると言われていた。
素晴らしい生き方の人だと頭が下がる。この人の生き方は競争とは無縁だろう。競争では無いところには、素晴らしい命の躍動がある。その人が出来ることで身体を動かしてみる。それ以外に何も始まらない気がする。そもそもあらためて、特別な何かを始める必要もないのかも知れない。
のぼたん農園をやっているのも、絵を描いているのも同じことである。おかしな話かも知れないが、それだけが社会に役立てる事ではないかと考えている。絵を描くことも、のぼたん農園を作ることも、好きなことでやっているのだが、誰かのためになるかも知れない。そう思うとやっていることがより嬉しいことになる。
世界はより厳しい競争社会に入っている。さらに良くない能力主義に進むことだろう。階級社会がはっきりとしてくる気がする。能力主義差別社会が来る。能力があるのだから、ないものを抑圧して支配してかまわないという社会である。
人間らしい世界ではないと思う。人間社会の良さは、競争に勝利して生まれるものではない。譲り合うことで、産まれるものだと思う。自分のためよりも人のためである事の方が、人間らしいのだと思う。人間の弱さが他者に勝つという事で安心を得ようと、競争人間に成れと駆り立てている。
人間は一瞬に滅びるほどの武力を持ってしまった。その意味で、次の戦争は人類の滅亡を意味しているのだろう。間違っても戦争の道を歩んではならない。にもかかわらず、ロシアもイスラエルも、危うい戦争を終わりにすることが出来ない。世界は狂い始めている。
それはAI革命と関連しているのかも知れない。人間というものが、機械に敗れ、機械に従うようなる革命である。人間の能力は絶対ではなくなる。人間は機械の手を借りていきるようになる革命が起きている。この革命は情報革命である。労働革命でもある。人間はAI革命後の世界で生き残るためには、生き方を変えざる得ない状況だ。
労働というものの意味が変る。生きるための労働から、人間らしくあるための労働に変る。人間らしくない労働は機械が行うようになる。畑を耕す肉体労働が、機械を使う労働が登場し、人間は数百倍の労働力を得る。そして、AI革命でさらに、数千倍の労働を達成する。
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span style="font-size: 17px;"> それは、古代の皇帝のような、隷属した何千人の労働力を得ることと、同様なことになる。その人間の飛躍的な能力の拡大が、不安定な社会を生み出している。一人が一人分しか働けないという、人間の原点に立ち戻ることが、人間を取り戻す方法ではないだろうか。そこからもう一度考えてみる。
人間は自分の労働で、生きる事が可能だ。一日1時間働くことで、人間は食糧の確保が出来る。人間が生きるという意味では、競争などいらないのだ。この自給自足まで戻る事ができれば、他人を滅ぼすような競争など必要がない、世界が見えてくる。
この事実を身体で経験することだけが、AI革命後の世界に生き残る道ではないだろうか。そのためののぼたん農園である。のぼたん農園で週に一日働くことが出来れば、食糧の自給は可能になる。そのためには農業技術が必要になる。失われ始めている、人間が働いて一人前の、江戸時代の農業技術を探らなければならない。
人間の幸せは、身体を使って生きる事にあると考えて良い。回りの人と協働し、助け合う。この生き方の奧に、人間の幸せがある。他人を滅ぼしながら勝ち抜くような生き方では、不幸が不幸を呼ぶばかりである。人間の豊かさから遠のいて行くばかりだ。
産業革命があり、人間は豊かになったが、競争が激化した。AI革命があり、人間は人間らしくあるための道を見失っている。私が言うのも恥ずかしいことではあるが、もう一度人間は何のために生きているのか。そのことを見つめ直すところから、始めて見る以外にないのだろう。