一日を十分に生きる

   



 今この文章を書いているグーブログには編集ページがある。そこには記事一覧というページがある。過去に書いたものから、これから掲載する予定の書きかけの文章などがすべて並んでいる。その先頭にあるのが、「ブログは続いているだろうか。」2032/06/01 04:44の文章である。

 いまから、8年以上先の日付の予定記事である。私がそれまでに死んだとしてもその日には記事が出るはずである。ブログを始めたときにここまで続けるという目標で決めた日である。17年前に毎日書くと決めた。そうしなければ続かないことが分かっていたからだ。

 あしがら農の会「最小限の家・研究」2006/03/05 が最初の記事だ。その頃のことは忘れてしまったのだが、1万日続けようと考えたのでは無いかと思われる。27年間かかる。いくらか数字がおかしいが、その辺まで継続するつもりでブログを書き始めたのだ。

 今書いているこの記事数で偶然6500件目である。後3500日である。9年と10ヶ月で1万日である。数日抜けた日があるが、それは書いたブログに抗議があり、削除した場合があるからだ。2回削除をしているかと思う。ともかく願掛けで、1万日行である。どんな願いかは願掛けなので書くわけには行かない。

 しかし、6500日もすでに過ぎてしまったのかと、改めて何をしてきたのかと思わざる得ない。ブログも1万回書けば、読めるような文章になるだろうと期待して始めた。文章としての願いは井伏鱒二先生である。しかしあんなふうな自然でふかい情趣は、残念ながらわずかもない。人間の深さの違いと思わざる得ない。

 精一杯やってきたつもりだが、「自分の絵を描く」という意味では、こちらもいまだ何も出来ていない。努力不足か、能力不足か、きっとその両方なのだろう。まったく進歩がないどころか、退歩が見られるくらいだ。まあ文章の方はいくらか読みやすくは成ったかも知れない。

 絵の方は65年継続しているのだが、少しも分りやすくはなっていない。別段自分を生きるのだからそれでいいのだ。自分とは何かと言うことが、なかなか把握できない。分からないことは描かないでいたいと思い、ある意味より不明瞭になった。よく分からないのだから、分りやすく描くことが出来ない。

 以前は人まねをやっていたので、見栄えがいくらか良かったのだ。人まねを捨ててから、退歩が始まった。それでも、なんとかものまねが捨てられた気がして、嬉しい思いはある。自分が見付けたもので絵が描けているのかと言えば、それはささやかなものになる。

 そのささやかなものに、格好を付けようと未だにするから、恥ずかしい限りである。その格好付けのダメな奴が自分だと思えば仕方がない。自分を探して絵を描いている。自分を見付ければ自分の絵が描けると考えているが、どうもこの辺りの考え方がおかしいようだ。

 最近は少し、のぼたん農園から離れて絵を描いてみようかと思っている。何かを変えてみるほかないと言う気持ちが湧いてきている。午前中はのぼたん農園にいて、午後になったら、のぼたん農園以外のところで絵を描いてみようかと思っている。

 一昨日は川平の方に移動した。昨日は嵩田の方。と場所を変えてみている。少し新鮮な気分で絵を描くことが出来た。移動アトリエの良いところである。しかし、今日は山の方に行って海の絵を描いていたのだから、おかしい気はする。

 感動を描くと言うことでなければならない。どうしても描きたいものだけを描くべきだろう。日々の一枚によって、感動が薄くなっているのかも知れない。別段絵になる場所を探して描いているわけでは無い。最近は人間が作っている暮らしの周囲の姿に引かれて描くことが多い。

 耕作地のある風景に惹きつけられるのは、自分が農業をやっているからなのだろう。耕された土の色に惹きつけられるのは、土壌をいつも気にしているからなのだろう。赤い石垣の土壌を耕土に変えていけば良いのかとつい考えている。サトウキビ畑を見ると、ついその経営を考えている。

 農地というものが気になって仕方がない。自然の中に埋没したような農地を見ると、描きたくなる。石垣の農地はすぐに自然に飲み込まれる。そうして、農の会の田んぼや畑、そしてのぼたん農園の畑を耕作していることを思い出す。そのことが絵を描くことに繋がっている。

 こうして、一日一日絵を描くことが出来ることに喜びを感じる必要があるのだろう。確かに、今の一日に何の不満もない。これ以外にやりようもない。先に延ばすことなく、やるべき事をやり尽くそうと考えているのは良いのだが、なかなか到達は出来ない。

 たぶん一日を十分に生きるということは、何かを達成すると言うことでは無いような気がする。そこに向かって生きていると言うことなのだろう。いつまで経っても到達しない道を、とぼとぼと歩き続けると言うことなのだろう。

 道の方角に迷わないと言うことであれば、それでいいとすべきかも知れない。何時までもたどり着かない道だ。ただこの方角だと歩いていることが目的なのかも知れない。死ぬまで歩くくとを続けられると言うことで、満足すべきなのかも知れない。


 絵は確かに歩いているという道しるべである。10年前の私と今の私ではまるで絵は違う。10年前の自分は違う場所に生きていたと言うことなのだろう。1日1日では分からない変化も、1年、10年という長さで見れば、ずいぶんな変化が起きている。

 絵を描いているとそれが分かる。ブログの文章でも17年前と今では違う。違っている事が、衰えていると言うこともあり得る。衰えて行くのであるとしても、その一日を精一杯生きるほかない。自分という方角に向かって、歩いて行くほかない。

 

 
 

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