AIで人間は2分されてゆく
良く出来なかった初めての田んぼ。様々な要因が考えられる。良い勉強になった。水が足りなかったのが一番の問題。田植えが1週間延びた。その間の苗の保管が悪かった。田植え後の強い風で苗が痛んだ。土壌が田んぼになっていなかった。
AI がこの先人間の社会を急速に変えるて行くことは間違いがない。それは産業革命が人間の暮らしを変えたこと以上かも知れない。人間がこの変化をどう受け止めることが出来るのか。出来ない可能性もかなりあると思わざる得ないほどの変化が起こるだろう。
絵を描くAIがイラストレーターや商品絵画の世界を一気に変えることだろう。たいていの絵はAIに任せることになるのは明らかなことだ。創造的な仕事と思われていた仕事でも、AIの方がましな物がいくらでもある。AIに影響されない物がないほどの変化が起こる。
多くの仕事がAIに置き換えられてゆくことは間違いがない。しかし、AIを超えるような人間も必ず現れるだろう。天才というような人である。天才とAIが社会を作ってゆくことになる。天才はAIを超えた仕事をするひとのことになる。あるいはAIを使いこなす人が天才なのかも知れない。
大多数の人間はAIと天才の想像の結果の恩恵に従い、それぞれの人生を生きることになるのだろう。みんなが天才をまねしたところが始まらない。どれほど将棋が好きでも、AIを凌駕するほどの能力はわずかな天才だけのことだ。だからと言って、将棋の面白さは以前とは様変わりといえるほど増している。
私が将棋を覚えたころは将棋が強くなるためには定石を覚えて、詰め将棋を解いて将棋の考え方を身に着けるということが普通だった。それが完成すれば、3段ぐらいにはなれる。それからさらに強くなるために、勝負術のようなものが必要だったのかと思う。
ところが、まず玉を固めるという定跡の基本が崩れた。居玉のままの定石が増えている。それは定石というより、広い視野で将棋を考えなければならなくなったということになる。定石という将棋の基本が、基本ではなくなったのだ。将棋はミスのゲームである。見落とした方が負けるのだ。
見落としが少ないのが、AIである。見落としの多い定石ではない形が得意で、見落としで勝負が付いてしまうことが多い。十分に読み会う勝負はAIとは少ない。見落としがないように注意深い将棋に変わった。もちろんそれはプロでは当たり前の事なのだろう。
将棋が変わっておもしろくなったように、人間の生き方もおもしろくなるはずだ。生きる事をおもしろいことにするためには、自分の行動重んじることだろう。何をするかである。どれほどAIが社会を変えるとしても、自分が行うと言うことはかわらない。
自分と言う人間を知り、その思いを生涯をかけてやり尽くす。そのためにAIを役立てれば良い。この姿勢さえ間違わなければ、良いりおもしろい世界には入れるはずだ。AIは人間だけが行うことの出来る行為を、明確にして行くはずだ。
人間の想像する喜びは、AIが造り出す世界にはない、深い創造の喜びが限りなくあるはずだ。AIは人間型と比較すると言うことを無くしてくれる。その人間が自ら判断し、行為すると言うことを、明瞭にして行くはずだ。何がその人間の行為であるか、あるいはものまねに過ぎないのかを突きつけるはずだ。
禅の到達点は他者と比較したところで意味が無い。その人が自覚できるかどうかが問題なのだろう。次の時代には人間の行為の本質が純粋に問われることになるはずだ。AIでも出来るようなことを、人間がしていたのでは、人間の生き様としては無駄なことだと誰にでも分かるようになる。
人間はAIによって分別されて行く。自らの生き方を見付けられる人間と、AIに支配されて行く人間。この分岐点は自分が何をしたいのかを自覚できるのかにかかっている。自分のやりたいこと、そのやりたいことを日々行い、生きがいと出来る者にならなければならない時代。
自分が好きなこと。やりがいがある事。その重みが問われる時代。その重みを自覚できるのかどうか。ここが重要になる。何が好きでそのすきなことに充実できるのかどうか。何が人間にとって大切なのか。好きであるということと、生きる事の意味の合致。
食糧を自給することの重要性を私は考えている。人間が生きるという原点だからだ。まず食糧自給の原点から始めると何が自分のやりがいかが見えてくる。例えば野球が好きだから野球をやっていたいと言うことも悪くはない。悪くはないが、そのことが本質にどれだけ近いかである。
野球を観客もなく、収入とも関係が無く、野球をやっていればいいと言えるかである。それは絵を描くことでも同じである。それさえやっていれば満足であるならば、それでいいのだろう。経済で人間の本質がゆがめられて行くことが減って行く時代がくる。
大多数の人間はAIにしたがうことを選択するのではないだろうか。自分の判断を必要としないことで、人間が劣化して行く。おもしろいことを自ら発見しないでも、AIがおもしろいことをいくらでも提示してくれる。そのうち自分が好きなことさえAIが指し示してくれることだろう。
自分という者の自覚が重要になる。何が好きなのか。日々の行動を自ら決める事ができるのか。その日の充実度が生きる重さになる。それは何時の時代もそう問われてきたはずだが、AIの登場で、人間の生きる意味がより明瞭になると言うことだろう。
好きなこと見付けなければ成らない。好きなことはやってみなければ分からない。絵さえ描いていれば満足と言うことは、中学生の頃には想像できなかった。それでも絵を描こうと決めた。決めて始めてみたら、今でも続けているほど好きだったのだ。
続けていたから好きになったのか。その辺のことは分からないが、AIの登場で絵は変わるだろう。そういうときに遭遇したのはおもしろいと思っている。写真が現われて、絵が終わると思われたが、そうでもなかった。AIが絵を変える。私絵画の時代になると考えている。
AIは人間を分断するかも知れない。人間力が問われているのだろう。AI出も可能な仕事をしていた人達が、泡を食っている。そうした人は要領の良い、商品製作を出来た人達だから、この先のことを考えて次の手を打つのだろう。AIデモできるような仕事しか発想できない人の場合、仕事が無くなると言うことになる。