君主制の廃止

   



 のぼたん農園に群生する「のぼたん」が咲き始めた。この花は昔の石垣島ではどこにでもあったものだそうだ。今は余り見られなくなっている。ボタンと名前が付いてはいるが、いわゆる牡丹とは近隣の植物でもない。牛が食べないので、だんだん「のぼたん」が残ったのだろう。

 現代の社会に於いて象徴天皇制は、民主主義国家に相応しくないものだ。英国で女王がなくなり、皇位の継承がなされた。今度国王になった人は相応しくない人物に私にはみえる。そうした場合でも、君主制は継続してゆくべきものなのだろうか。

 英国の国家統合の象徴に相応しい人物であろうとなかろうと、世襲と言うことで継承されていいのだろうか。そういう選択がなされないのが君主制なのだと思うが、例え反社会的な人物であってもかまわないという制度は、現代社会の制度としては余りに不都合なことではないだろうか。

 こうした世襲による君主制という仕組みが民主主義国家に必要な制度とは到底思えない。例え、のほんにおいて、複層的な制度によって、社会の安定化や、文化の維持、外交における特別な状態が作れるなどの恩恵があるとしても、皇室を利用した制度は良くない。

 それは北朝鮮を見れば誰にでもよく分かることだ。金正恩の娘が、何故特別なのであろうか。ただのわがままそうな子供である。あの子供に気に入られなければ、処刑さえもありそうだ。もしこうしたことを北朝鮮で発言する人がいれば、生きて入られないであろう。

 あえて皇室の話を繰り返し書くのは、皇室を特別なものにしてはならない、徐々に消えてゆけば良いと考えているからだ。幸い日本の皇室の方々は、穏健で常識のある人達である。平成天皇も慰霊の旅を続けられた。平和主義者である事がよく分かった。ある意味アベ政権の軍国化の抑止力のような存在であったかもしれない。

 しかし、平和の為とはいえ皇室の力を借りた活動はよいことにはならないと考える。少年時代に疎開や敗戦を経験した平成天皇の個人的とはいえ、特別な立場での体験を経たものは、深い思いではあったのだろう。平成天皇は10歳の時に軍人になることを拒否して、軍人ではない形で戦後を迎えた人である。

 東条内閣は戦意発揚のため、皇太子を早く軍人にしたいと考えていた。しかし昭和天皇がそれを拒否し続けたため、皇太子であった平成天皇は幸いにも少年軍人になることがなかった。こうして、戦争における加害責任の問題を常に抱えて生きたのではないかと思われる。

 危うい立場での平和活動家とも言えないことはなかった。その苦しい置かれた立場から、生前退位を申し出たのではないだろうか。そういう意味では昭和天皇はさらに苦しい立場で生きたのであろう。間違いなく戦争責任を一番感じなければならない立場である。

 象徴君主ではなく、明治政府の作ったまやかしの権力者としての天皇だったのだ。ところが軍部の言いなりになるほかない権力者なのだ。その実体についてはよく分からないが、当事者である天皇に一番の戦争責任が無いはずがない。天皇の名において戦争を行ったことは間違いはない。責任と言うことはそういうことではないか。

 明治帝国政府以来、その背景にあるのが帝国主義の君主としての天皇の利用である。現在でも、象徴としての天皇の利用が行われている。勲章を天皇が授与するという形にある。忖度と同調圧力の日本的世界である。それはアベ国葬の醜さに表れている。

 何故、民主主義における総理大臣が長く仕事をしたからと言って、国葬をしなければならないのか。アベ氏を権威として国葬することで、自民党自体の権威化を図ろうとしたのだろう。北朝鮮と何も変わらない醜い姿である。その醜さに気付かないほど、現自民党は腐っている。

 その自民党を選択する日本人が多いということは、健全な社会がゆがみ始めていると言うことになる。そのゆがみの顕著な事例は、平和の党を建前としては表明する公明党が、敵基地先制攻撃ミサイル配備を、政策として支持するというあり得ない、現実政治に流される政治姿勢に見られる。

 チャールズ皇太子に、20歳で生け贄として嫁いだダイアナ妃の哀れ。現夫人カミラ氏との不都合すぎる事情により、最後には英国皇室から追放され、悲惨な死に至る生涯。それほどの非道を導いたチャールズ氏が一体、英国統合の象徴になることを受け入れられる、英国民の不思議はよそ事ではない。

 日本の皇室はこうした非常識な姿は今現在はないわけだが、過去には無かったとは言えない。人間である以上さまざまなことが起こると想定しなければならない。民主主義政治の中での、世襲制はいかにも危険なものだ。ところがアベ氏を見れば分かるように世襲制度は、最近の政治の世界では根強い伝統芸能に近いものがある。

 血族であるという意味が生じる。それは民主主義政治においては何ら意味のないことだ。しかし、血族に象徴される見えないしがらみでできている日本の伝統社会の利権構造。その筆頭に存在するのが天皇なのだろう。もう終わりにすべき時が来ている。

 保守勢力の御曹司として、アベ氏は持ち上げられ、能力のあ
るなしにかかわらず、長期にわたり日本の総理大臣として指揮した。そして結果として経済を衰退させた。アベノミクスは日本売りだったのだ。にもかかわらず、国葬をせざる得なかった自民党政権の末期的様相。

 こうした政治的不安定化、そうではないか政治不能化の中で、天皇が持ち出されることは極めて危険なことになる。今のところ天皇にそういういともないだろうし、直接的な政治利用はおこなわれていない。しかし、間接的には競馬には天皇賞レースが存在する。また天皇杯を掲げるスポーツ競技は多数存在する。

 文化芸術学問関連でも天皇の関わるものは多数ある。こうしたことが日本の忖度社会に影響は与えている事は確かだ。天皇から勲章を貰えるまで、そうした公的な仕事を続けるという人も少なくない。この栄誉を天皇が授けるという感じに、うろんな感じがしてなら無い。

 天皇の権威をもって、人の生き方に影響を与えるようなことは、ないほうが良いのだと思う。名誉や報償で人を操作するようなことは、どれほど素晴らしい仕事であるとしても止めるべきだ。人間が生きると言うことは、自分自身のためと考える。自分の為が、人のためであり、社会のためにも成るという形が良い。

 君主制は静かに、時間をかけてなくなることが良いと思う。天皇家の方々にも、普通の人間として生きる事ができるようにすることが、人権尊重だと思う。真子様の騒動を見ていて、つくづく良くないことだと思った。A

 - Peace Cafe