太極拳の3年で分かったこと

   



 太極拳について書こうと思うのだが、まだ太極拳の練習は何か自分の考えを書けるところまで進んでいない。太極拳には相当に深い奥行がある気がしている。スワイショウ、八段錦と書いたので、これで朝の動禅が一通りになるので、太極拳につても、何がわからないかを含めて書いておこうと思う。

 太極拳は1年間かけてやっと覚えた。2年目に何とか忘れた。忘れたというのは、歩くのと同じで、意識することなく自然に出てくる物になったと言うことだ。3年目は正しい形を探してやっている。とても魅力のある動きだと思うのだが、その理由が分からないので、正しい形を真似ている状態。

 太極拳のなんたるかなど到底まだ分からない。スワイショウも、八段錦も自己流で大分形を変えたが、たぶん太極拳も随分自己流になっているに違いない。一人で眼を閉じてやっているので、どんな動きをしているのかはよく分かっていない。かなり無様な動きだと言うことは想像できる。

 せめて時間だけでも太極拳の正しい長さに合わせようと考え、調べたのだが、そのことは余り出ていない。競技として行っている者は6分以内という慌ただしいものだ。楊先生はゆっくり動くことが良いとして、12分ぐらいだと言われていたと言うことなので、12分になるようにしている。意識してじっくりと動かないと、12分にはならない。

 それでももう10ヶ月繰り返してきたので、何とか終わってみると12分に成っている。長さは良いとして、動きの目標が無いので、なかなか難しいところだが、重心をできるだけ低く落として動くと言うこととを心掛けている。それと重心の移動して行く動きが無理なく、なめらかに一定になるようにしている。

 動きはできるだけ大きくしている。ユーチューブで見るものはもう少し小さい動きのようだ。上下動も前後の動きも、手の上げ下げや伸ばし方も、すべてに大げさに大きく精一杯行うことにしている。これは本来から言えば随分おかしな事なのだろうが、この経過を通して、将来落ち着くところがあるのではないかと考えている。

 長さは最後の立禅を除いて12分ぐらいだと思ってやっている。何故か世間の太極拳は早い。中国の太極拳など、競技でないものも6分ぐらいで終わってしまう。太極拳が何かは理解できていないが、どうも中国は慌ただしいことだ。精神世界の体操だと考えれば、そんなに慌ただしい動きのはずがない。

 中国の太極拳の早さや、曲芸的な動きを見ると。中国が失った物がなんとなく分かる。かつて最も大切にされていた、タオ道である。オリンピック種目にしたいとしている。何でも争えば良いというものではない。そのうち禅まで競技にしてしまうのでは無いだろうか。

 太極拳を体操と考えることも申し訳ないことのような気がしている。能楽師の舞いのような物としてやりたい。幽玄な動きのものでありたい。そういう思いを込めてやっている。精神を込める動きは静かな物のはずだ。と言っても無様な私がやっているのだから、ほど遠いものだとは分かっている。初心者が書くのも恥ずかしいことだ。

 日本の能はすごいものだと思っている。宝生流の家元の方と交流があったので、舞台を時々見せていただいた。すごい動きである。精神を動きに込めて表現する世界は舞踏以上だと思った。一子相伝だと言うことがよく分かった。身体の動きという物は、実は心の中を表現できるもののようだ。

 心の中が「空」であれば、空という姿がある。空であると言うことは自由と言うことにも繋がっている。自分という物から解放された姿。これは大げさなようだが、太極拳をやる以上はそういうことを考えている。

 まだ3年くらいの者が大それた事を、言い過ぎていることは分かっている。やる以上はそこまで考えて取り組んでいる。本音では健康体操をやっているつもりはない。何でも大げさにしてしまう性格なのだ。だから毎朝やると言うことだけは決めている。

 さらに大げさに言えば、命を削っても太極拳の動きをつかみたいぐらいのことなのだ。身体の表現と言うことはとても重要な側面がある。手を前に出すと言うこと一つでも、実はまったく人によって違うのだ。まるで魂を手の平に載せて差し出すと言うことができる人がいるのだ。

 その気迫のようなものを感じられないくらいなら、太極拳をやる意味がない。それは座禅をしているだけで、その存在がまるで違う人がいるのと同じことだ。人間力というようなものかも知れないが、そういうことはすごい人の太極拳を見れば、その人間の大きさは分かる人には分かる物なのだ。

 わずかな取り柄があるとしたら絵を描いてきた目である。風景のなんたるかを真剣に向かい合い感じ取っている。風景の何が絵になるのかばかり日々精進している。人間をみることも同じことで、人間の力のようなものをある程度見ることが出来ると思っている。

 太極拳もこの人は違うという人がいる。その人間力が動きに現われるものだ。分りやすいのはだめな人の方だ。ほとんどの人がだめだから、すぐわかる。しかし、中には動きが違うという人がいる。動きに心が込められる人がいる。そこを重要な目標にしたいと考えている。

 私の太極拳はまだひどいものではある。しかし笹村出という人間がやっていると言うところまでは進みたいと思っている。そういう欲があるからだめなのかも知れないが、そう思わなければ続けていない。スワイショウや八段錦もすごい体操だと思うが、太極拳はそれ以上の何かがある。

 最後に立禅をする。立禅は立った姿の禅である。座禅のまま立った姿である。3年前に始めたときにすでに、立禅の時に空の状態になることが出来た。たぶん動禅体操を一通り行い、ホットして力が抜けていたからではないかと思う。安堵の気持ちで立禅を行うのはいい。邪念が湧いてこない立禅は気持ちが良い。

 立禅の時間は特別に設けていないが、10呼吸することにしている。呼吸は自分が最善と考える物を求めて行っている。呼吸にだけに集中している。短い立禅なのだが、立禅はとても気持ちが良いものだ。立禅の時の気持ちで絵を描くようにしている。

 最後の最後に手を組んで頭を深く下げる礼をおこなう。動禅体操を行えた事への感謝である。

 
 

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