水彩人展で絵を語る会を開催した

   

   
 
 水彩人展の会場で絵を語る会を開催した。会場で人が密になるのはまずいので、あまり案内もしないままに、開催することにした。一人も参加する人が居なかったらできないけど、まあそんなことはなかろうということで、一番人の少ない月曜日の10時からということにした。

 まず自分が何を語るかということをまとめておく。会場ではここに書いたことを話した。

 4点の絵を出している。大きさは中盤全紙である。最近描いた絵のなかから選択した。最近内部表現というより表現方法にとらわれているきらいがある。言い訳というか、その理由はもう少し先に目標を置いているということにある。今の段階では、水彩の必要な技術を確立しようと考えている。

 記憶の中の風景を描いている。記憶といっても、ぼんやりと霞んだというようなものではない。目の前の風景と同じように鮮明な世界だ。むしろ今目の前に見えている世界よりも明確なような気がする。自分の記憶の中に蓄積されてきた風景である。

 見ているのだけど見ていない風景。記憶の回路に残された風景を描きたい。記憶は勝手に種々選択をしている。記憶したいから記憶しているというより、その人間の中に刻印されてゆくような、根深いものが記憶に残るのではないだろうか。

 目の前にある生々しい現実の風景を見て描いてはいるのだが、記憶の回路を通過させて、自分の中の風景に熟成されてきたものを描きたい。目の前の風景を画面に写すのではなく、画面では自分が記憶の中から選んだ必要とする風景を創作して描きたい。そのほうが自分の世界観を表現できると感じている。

 自分の絵を描くという目的を達成するためには十分な技術がまだない。ああやれればということが水彩画ではよくおこる。できない表現というより、まだわからない多様な技術がある。しかもまだその技術は開発されつくされていないと感じている。やればやるほど、水彩画の技術は未開発だと思えてきた。

 水彩画は日本人の資質によく合っているとは感じているのだが、その日本人の水彩画はまだ確立されたとはいいがたいものがある。日本人の油彩画はあるとおもう。水彩人はその点では水彩画の幅を広げようとしているといえる。水彩人の一員として、水彩画の技術を学びたいと思う。

 自分の絵に至るためにはもう少し水彩画の技術の幅を広げる必要があると感じていることになる。それほど水彩画の表現は幅が広い。岩彩のような表現。テンペラのような表現。油彩のような表現。そしてそのどの技法でもできないような表現が水彩画には存在する。それはまだ誰も水彩画を開発できたとは言えないと考えている。

 記憶の回路を通り抜けた世界を表現することに、水彩画が一番向いていると感じているにもかかわらず、いまだそれが実現できていない。実現できない一番の理由が、その記憶にある独特の状態を十分に表現する技量がないということがある。

 多くの人が自己表現というと、表現主義的に自己表現すると、デクーニングのようなアクションペインティングのような、力仕事になりがちである。それも一方法ではあるのだろうが、それだけでは私は物足りないと感じてしまう。芸術は爆発だというわけにはいかない。芸術は静かな沼の底の世界でもある。

 絵画は総合だと思っている。爆発と沼の底の静寂が総合されている。そうした人間そのもののような世界を表現したい。それが描けない理由は私に技量がないということと、人間にその深みがないからだと思う。人間のほうは修行を続けるほかないが。水彩画の技術を極めるということは努力でできる。

 一日一枚を長く続けている。それをブログで公開している。これが自分の努力である。その先に自分の世界があるのではないかと思っている。精いっぱい絵を描く。それ以外に進む方法はない。技術はいつの間にか身体のものになる。身体のものになっていない技術はまだ技術ではない。身体に身についたものを身体に任せて描く。そこに自分の絵があるかもしれないと思っている。

 もう一つの絵を描くことが、美しいのぼたん農園を作り上げることだと思っている。風景を作るということである。人間が自然にかかわり、美しい景色を作る。その作り続ける景色が、私という人間を作る。景色の中に人間は生きている。

 どちらも好きでやっているのだが、それを力の限り行う。もし自分に時間が与えられているなら、達することができるかもしれないと考えている。たとえ届かないところかもしれないが、行けるところまで精いっぱいやりたいと考えている。
 
 参加者は以前からのの絵を語る会の10名くらいだった。それ以外に掲示を見て参加した一般出品者の方が一名。10時から、12時まで行った。一人12,3分ぐらいだった。それぞれが慣れてきていて、かなり自分の絵を語れるようになった気がした。

 語るということは自分の今の状態を言葉化することである。そのことが自分の絵を再認識することになると考えている。松波さんが反省はしないと、何度も言われていたのは印象に残った。松波さんはいつも自分を壊しながら次に行こうとする。勇気があると思った

 語る言葉から、多くの人が表現主義的な考えになっているということを感じた。自分の感じていることを絵に表現したいということを言われていた。自分の中にある絵をそのまま出せばそれが自分の絵だ。というような考えのようだった。

 芸術は爆発だという影響か。私は内なる自分など大したことはないと思っている。爆発させたところでどうということはない。だから表現された絵が面白いかどうかは、その人間の絵画の深さと質になる。それぞれでいいことではあるのだが、少し考える必要があると思った。
 
 絵はもう少し科学性のある客観的なものだということ。技術がないものは爆発もできない。岡本太郎はいい例だろう。あの絵の具の付きでは絵とは言えない。爆発するだけの材料がなければ、爆発は人には見えてこない。表現したのだからそれでいいというものではない。やなりその爆発内容が問われる。

 今回の絵を語る会も大いに自己反省になった。爆発もいいけど、内容もな。つまらない自己露呈は絵ではない。ここからが難しいところだが。そのことに気づいただけでも良かった。


 

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