動禅の工夫 4

   

 

 名蔵の田んぼの写真である。この田んぼの向こうは海である。昔はこのあたりは湿地であり、マングローブなどが生えていたのだろう。左の方へ行くと名蔵アンパルの湿地が今でもある。右の方には崎枝半島、川平湾と続いている。

 冬期湛水をしている今の時期、一番絵を描きに行く場所である。いつまでも夜が明けるのが遅くて、七時ではまだ暗い。8時頃やっと明るくなる。明るくなるのが待ちきれない気分だ。今日は夜明けが早そうである。天候にもよるのだが夜明け頃が一番面白い状態になる。

 毎朝、動禅を続けている。動禅についてこれで4回、書くことになる。一年を経過して、新たに考えるところもある。動禅は言葉を換えれば、健康体操と言っても良い。動禅という方がその気になれるから一応動禅と勝手に名付けている。そういう言葉があるのかどうかも知らない。

 何とか、二年目に入りこの調子ならば、身体が動く間は続けられそうになっている。動きは頭に入った。目をつぶっていても一通り出来る。ただ、何回やったかがわからなくなり、数は良いなと思うだけやっている。呼吸も数えているのだが、これもすぐ忘れてしまう。

 何で続けられているかには理由がある。どれほど意味のあることでも続けられなければ意味がない。続けてその結果こそ意味がある。つまり、100歳まで生きて、良い絵を描いていれば、意味があったと言うことになる。今良い絵が描けていれば、こんな言い訳入らないので残念であるが。

 何に対しても継続してきた方だと思う。性格はだらしなく、好きなこと以外は何でもすぐ投げ出す方だった。それもあって継続するための工夫をしている。誰でも工夫をすれば、継続力は増すと考えている。続かない人というのは継続の工夫が足りないだけで、根性が足りないわけではない。

 ブログ5500日現在継続している。この経験で何に対しても継続できる工夫があることが分かった。ブログダイエットというのがあるそうだ。毎日体重を書く。これだけでダイエットできると言うことだ。確かにこれも工夫だろう。継続の工夫というものは生きることに実に役立つものだ。

 今や散歩にすら出れない暮らしである。なんとなく不安な目で見られているようで嫌なのだ。ますます、朝の動禅が重要な日課になっている。50分ほどだ。スワイショウと体幹体操だけは昼と、夜にもやることにしている。

 夜泡盛を飲むことにしている。泡盛のことを健康酒と呼んでほぼ毎晩飲んでいる。夕食は食べないと言いながら酒は飲んでいる。健康と名付けた方が気分が良いからである。酒は百薬の長というような、酒好きの言い訳を都合良く取り入れている。

 泡盛を健康のために飲まなければならないのは、体重が55キロ以下の日である。健康酒なのだから、これ以上あるときは飲まないことに決めた。決めたのだが、週に2日ほど越える。55キロというのはそのぐらいの所に設定した。身長からするともう少し体重はあっても良いが、55キロと決めた。ともかく決めることも大事だ。決めたならば少々のことでは変えないことだ。

 この健康酒は飲むと確実に300グラム体重が増える。逆に飲まなければ300グラム体重が減る。健康体重が55キロだから、ここに安定するように、日々健康酒が飲めるように、動禅を行うわけだ。酒が飲める、酒が飲める、酒が飲めるぞ。と思いながら動禅をする。

 これが続いた第一の理由だ。しかし、それだけではまだ続かなかったと思う。まだ続いた理由がある。それは動禅が心地よいぐうたら禅であると言うことになる。らくで又やりたくなるものでなければ、ぐうたらには体操は続かない。千日回峰行などもってのほかだ。

 座禅は厳しい。無念無想でただ50分座っていると言うことは、耐えなければならない。耐え続けるようなことはぐうたらには続かない。動禅は何も厳しいところがない。少々きついところも無いわけではないが、最後に脳内に快適ホルモンが出る工夫をしている。

 半身浴である。50分ぐらいが身体を動かす動禅である。そして最後に半身浴を10分ほどする。昨夜の風呂は冬の今でもそれほど冷めていないので、そのままぬるま湯に入り、再湯沸かしをする。徐々に温度が上がる。この10分ほどが天国気分である。

 ただ呆然としている。全く腑抜け状態にいる。これは湯快爽快で誰でもそうなるだろう。この快適半身浴を10分することで、動禅を又やりたいと思うようになったのだ。酒が飲みたいのと同じである。毎晩酒を飲むのは我慢しているわけではないが。

 飲めば気分が良いから飲みたいのだ。動禅も最後の10分のぬるま湯状態がぐうたらには実に気持ち良かった。朝湯の庄助さんである。こんなことをさせて貰って罰が当たらないか心配なほど湯快である。これを動禅に加えることで、動禅そのものが、継続できるやりたいものになったのだ。これが二つめの動禅の工夫である。

 脳の中にあの最後の気分の良さがすり込まれ記憶されている。すると少々辛い筋肉強化体操部分もあるのだが、難なく乗り越えられることになった。そもそも体操などというものは、冷静に考えればどうでも良いようなことをやるのだ、辛いだけでは続かない。健康酒だって、健康に良いと自分を説得させるのは、じつはなかなか難しい。

 動禅の全体が、一年を過ぎて心地よいものになりつつある。継続する大変さがほぼ今はない。ほぼであって.実はまだいくらかあるのだが。こう書いてしまうことも自分を思い込ますために大切な工夫だ。このおっくうさは始めるときのどっこいしょである。これを乗り越えれば後は終わりまで自然に続く。

 これが動禅の工夫第三である。継続にはこの始まりのどっこいしょ気分を越える工夫も必要である。これはゆる体操的なスワイショウから始めることにある。スワイショウはおっくうなところが少しもない。身体をふるだけの体操である。最初はぶらぶらと揺する。ゆる体操とまったく同じである。揺すっている打ちにおっくうさが消えて行く。

 スワイショウはいつでもやる方が良い。絵を描いているとき、気分転換にやるのも良い。別段大変なことではないから、一日3回ぐらいはやっている。これをしていれば、絵を描いていても肩こりと言うことがなくなる。ここまでは継続の工夫であった。

 そして、1年経過して気付いたことをいくつかあげておく。スワイショウは背骨をねじり背骨回りの筋肉をほぐす。この時頭も回すことで首までほぐす。腰から下は余り重要ではないのだが、出来れば膝や足首までほぐせればと思っている。

 八段錦は呼吸を鍛える体操であるとの再確認である。一つの呼吸を一つの動きと捉えて、自分の呼吸をより長くしながら、呼吸を限界まで行う。呼吸は筋肉が行うものだから、呼吸を司る筋肉を鍛える体操を、八段錦と考えればいい。

 呼吸をより強く、より長く、より大きく出来るように動きを工夫する。動きはユーチューブにあるものを参考にしながら、自分の気分の良いようにかなり変えた。呼吸が深く長くなるかどうかが、工夫の要点である。人に良いからと言って自分に良いとは限らない。

 膝を緩めて今はやっている。この方が厳しい動きになる。足を突っ張らせず緩めたままで、呼吸のための筋肉を強く使う。この方が難しくなるが呼吸の筋肉が鍛えられるようだ。

 呼吸は一つの動きと一つの吸気、一つの吐息を連動させる。二〇数えていた吸気であれば、これをできるだけ長くするように努力している。動きによって三〇数えられるものもある。吐く場合も同じである。

 太極拳ではできる限りゆっくりと行う。24式行い、13分であれば良い。長ければ長いほど良いと考えている。長くて困ることはどこにもない。太極拳で重要なことは、体重の安定した移動である。身体が足の上にしっかりと乗っている状態を目指す。ゆっくりと行えば行うほど安定することが難しくなる。

 動きをできるだけゆったりとさせる。止めの時間も長くても良い。このことで日常の動きも安定してくる。気持ちもゆったりと安定してくる。絵もゆったりと安定してくるはずだ。そう期待しているがどうだろうか。

 

 

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