絵はヤブレッカブレのサキにある。
ーーーー石垣島崎枝の夏の終わりの田んぼ
この風景に惹きつけられて、もう100日以上描いただろう。それでも絵が出来たことは一度も無い。恐ろしい景色である。少しも描けない間に田んぼがなくならなければ良いと思っている。こんなに惹きつけられるのに、描けないのは実に残念である。
生きているば絶望的な気分に陥ることが起こる。どれほど楽観的な性格であろうとも、もうだめだという時はある。「絶望が虚妄であるのは、まさに希望と同じだ」ーー魯迅。希望がシャボン玉のように消えることは誰もが知っている。それなら絶望だって、消えて行くだろう。
絵を描いていると、すぐ行き詰まる。絵を描いている間中、どうしようもないことに向かい合っている感じがしている。もうどうにも成らないので破れかぶれだと思って、メチャクチャにやってやれということになる。それで意外にも突破することがあるだけである。絵が出来たとしても自分の力で切り抜けたというわけではない。偶然の神様がかろうじて救済してくれることがある、と言うに過ぎない。
いつも偶然だから、どのように描いたのかが分からない。闇雲にやったと言うことばかりだ。私の絵には手順がない。10枚ほど、描き出しから、一時間ごとくらいに、一呼吸したら写真を撮ると言うことをやってみた。出だしからバラバラであった。
自分が描いているのではあるが、めちゃめちゃにやるのだから、自分の感性や論理も否定して手を動かす所に回答を探すことになる。そのデタラメだけが、自分でないところに出る事ができて、突破する方法。これが創造と言うことかと錯覚を抱く。それでも出来た絵を見ると自分以外の何者でもない絵が眼前にある。これは怖いことだ。怖いことだが、やっぱりこれが自分である。又とは出会えない自分だなあと思う。
意識的な自分がやっているときにはどうにもならない。もうデタラメで良いという状態の自分というものは、自分なのであろうか。他人なのだろうか。すんなり自分のままで出来るという絵はまずないのだ。この自分を越えたというか、否定したというか、偶然に任せたというような時にだけ、回答が来るという怖さ。
絵画は分かったことをではなく、分からないことに向かい合おうというのだから、絵を描くことはやっかいなものなのだ。学問とか芸術とか言うものは常に未知への挑戦なのだろう。計算もない。予想も立たない。辛いことにたいていの場合は、どうしようもなく何の成果もないままに終わる。
絵を描くことは絶望を携えて歩き続けるようなものである。何の成果もない自分の人生というものに向かい合うと言うことが、絵を描くと言うことなのかと思う。できっこないことに向かい合う。自分の能力では及ばないことを日々確認する。それでも、安易な職人に堕落できない何かで、絶望に包まれる。
もしかして、いつか自分というものに到達できる時間があるのではないか。それには今自分だと錯覚しているものをどう否定するかではないか。これは絶望の中の希望である。
なにしろ、いままで絵を描いてきた大半がごみの山である。その大量な無駄とも思える作品。このごみの山とも言えるいままでの絵が生かせるのかどうかは、これから描く絵にかかっている。これが魯迅の言うところの希望ではないだろうか。どうせだめなのだ。描いた絵は自分のだめさをものとして示してくれる。希望という幻影の甘さをきっぱりと否定してくれる。
保存箱にある1000枚近い絵がすべて入れ変わる予定なのだ。以前、描いた作品を時々出してみる。残したいようなものはほとんど無い状態になっている。これを自分の成長と考えるところに希望がある。そして、これを能力の限界と考える所に絶望がある。
いつも絵はこの繰返しである。未だかつてないものを目指している。自分というものからしか出てこないのだが、その自分を否定しなければ新しいものは産まれない。創造する芸術活動とは職人仕事ではなく、自己破壊の仕事なのだ。獲得したものを端から否定して行く、絵を描くと言うことの恐ろしい仕組みが存在している。
大げさであるが、そういう意識を持ってやっているらしい。だから芸術は美術ではないと思っている。岡本太郎や小林秀雄の芸術論の影響だと思う。実際の岡本太郎の作品は自分が獲得した様式を生涯自己否定できなかったので、それで作品がつまらないのだと考えてきた。
あれほど論理的な岡本太郎が、何故絵を描くとなると自己陶酔してしまうのだろうか。爆発どころか自分の寝床に潜り込んでいる。まさにぬくぬくした自己肯定の鬼である。これだけは見苦しくて嫌だ。
小林秀雄からは自己否定しなければ自己表現というものはないと言うことを学んだ。自己否定が無い限り、自分というものに至る事はできない。自分を表現するというようなことは自分の中に陶酔していたのでは考えられない。と言うことを学んだつもりだ。獲得したものをどうやって、捨てるのかと言うことがいつも課題だった。
自分を絞り出すと言うことは、自分というものがない限り、出来ないことである。もう出ない絵の具のチューブをはさみで破って最後の絵の具を使う。使い切った絵の具は何か暗示的なところがある。新しいチューブの絵の具より、良い絵を描かしてくれそうな気がしている。
只管打坐ではないが、只管打画である。自分に至るという道ではあるが、そこに結論とか目的とかがあるのではなく、ただ自分に向かって画き続けるだけ。何もないと言うことで修行が出来ないので、絵を描くということを座禅の代わりに置いたにすぎない。
特別な能力のあるわけでもない、ただの人間がやってみることにも、いくらか価値があるのではないかと生きてきた。それは成果があるというようなものでは当然無いので、苦しい道ではある。絶望の道のようなものである。しかし、絶望も希望も、同じように幻影に過ぎないと信じている。
ただこのままやって行くしかないと思っている。こうして、日々絵が描けるという幸運を生きたい。これは自分だけの力ではない。周りの人がくれたものである。今そういう実感の中で生きている。周りの人への感謝という意味でも、只管打画で行く。
それが何も生み出せないものであるとしても、こう生きたと言うことだけは周りの人に見てもらえるだろう。絵を描くことは絶望の練習になる。何度も練習をしていれば、絶望もそれほど絶対的なものではないことが感じられるようになる。
何故昨日あれほどもうこの絵はだめだと思っていたのかと思う。今日になれば、なんとかなることもある。もちろん生きることは絵より大変であるが、絵を描くことで練習を重ねておけば、大抵の困難は考えているほど絶対的なものではないだろうと言うことが想像できるようになる。
学生闘争の時代。原発事故の時代。コロナ蔓延の時代。心の絶望を3度体験した。しかし、生きている間に、なんとかなるものである。絵を描くことで生きて来れた。希望とは行かないまでも、何とかはなる。絵を描いていれば、納得した日々なのだから、有り難いことだ。