絵描きとはどんな人のことなのだろうか。後半
私の30代は職業絵描きになれるのかもしれないと、一番思えた時期である。1980年前後である。絵が投資の対象となっていて、絵画投資のための雑誌などが、書店に並んでいた。絵画投資で成功した人の話として、絵は選んではいけない。何でも買っておく。その100点のうちの1点が暴騰すればいいのだ。などと書いてあった。
そのご、美術ジャーナル画廊の羽生さんに手紙を書いて絵を見て頂いた。羽生さんはわざわざ、山北の山の中の家まで絵を見に来てくれた。絵が分かる人だと聞いたからだった。そんな大それたことまでしたのは、何とか絵描きになりたかったので必死だった。
それから個展をやらせていただくようになった。お願いをしてやらせていただくようになったのだが、画廊でやらしてもらうことで売れなければ、迷惑をかけるという気持ちが負担になっていた。何とか絵を売ろうと様々な努力をした。親戚友人にはずいぶんお願いもした。
それでも、その頃はいまより絵が売れる時代だった。バブルの時代だからだと思う。私のような無名のものでも、年間20枚ぐらいは売れたと思う。年間6回個展をした年もある。そんな暮らしが10年以上続いたのだろうか。中途半端に絵描きの入り口辺りをうろうろして30代を過ごしていた。
毎週銀座の画廊を歩いていた。面白い絵が飾られる画廊がだいたいわかるので、ぐるりと回る。ギャラリーガイドという月一の簡単な印刷物を取っていた。それを見て印をつけては歩いていた。それで絵を描く知り合いが増えていった。画廊の数も100件以上あったと思う。
誰かが個展をやるというとそこに集まった。そして飲んで、絵の話をした。面白かったと言えばそうなのだが。公募展やコンクールで評価されているわけではないので、なんとなく引け目のようなものは感じていた。それでも、評価されるような絵を描くことはできなかった。受け入れられていない立場の曖昧さがだんだん重くなった。
自分の絵というものは全く分からなかったが、売れればそういう絵を描くという程度の事だったと思う。今思えば恥ずかしくなることばかりだ。当時フランス派というようなしゃれた絵がはやりだったかもしれない。いくらか売れたのもそのせいだったのだと思う。わたしは何もわからないまま、ザバロ風に描いていたのかと思う。書いていても恥ずかしくなる。
話は戻るが、フランスから戻ると関東中央病院というところに父は入院していた。当時三軒茶屋の商工センターというところで両親はスポーツ品店をやっていた。私は父のいないスポーツ品店をやりながら、絵を描く生活を続けていた。その中で個展をするという状態である。絵描きには程遠いところにいることもわかっていた。
史染抄の個展会場で世田谷学園の恩師である加藤先生から、自分が入院するので、代わりに美術講師をやってくれないかと言われた。その間だけならという事で、世田谷学園に行くことになる。そのまま加藤先生が亡くなられたために、それから世田谷学園に勤めるようになった。
話は前後してごちゃごちゃになってきたが、30半ばになり絵の行き詰まりを感じるようになる。描いている絵が自分のやりたい「絵を描く」こととは違うという気持ちである。自分の絵を描くというより、観念の中にある絵画というものを目指していた。理屈で作り上げた良い絵の亡霊である。
絵が描けなくなる。描こうとすると吐き気がしてしまいかけない。描く絵が分からなくなった。しかし、まだいくらか売れていて4つほどの画廊に絵を委託していた。それで相当に困った。
絵を描いていて一番苦しかった時期ではないだろうか。こんなことでは絵を描いて生きてはいけないと考えた。自分の中にある売るための媚のようなものに耐えきれなかったのだと思う。個展の苦しさは絵を売っている見苦しさであった。自分の絵を価値があるとは思えないまま売る、詐欺師の様な気分である。
私には商才があった。そのことはあまり書きたくないことだが、書いておく方が正直である。絵を売るということより、学校に勤めるより、収入を得ることはできた。スポーツ店や様々なことにけりを付けなければ、まともな絵描きの生き方ではないと自覚した。インチキの生き方を続けられなくなった。
東京を離れようと考える。これが転機だった。離れて、最初からやり直そうと考えた。世田谷学園には通っていた。これがあったので、冒険に進めた。しかしそういうところがインチキともいえるのだが。通える範囲の山の中を探し、暮らしを立て直そうと考える。母は一緒に来た。病気の父は東京を離れたくないと言っていたが、家が出来れば、一緒に来るだろうと考えて、山北の山の中に自給自足の家を作った。
山北の山中での開墾生活は移住の前から進めていた。この時三原山の噴火が見えたから、1986年11月である。37歳の時にはすでに開墾を始めていたことになる。その開墾をしていた場所にアトリエを作った。その家が出来上がる直前に父が死んだ。
こうして絵描きのなろうとしてもがいていたころを、思い出して描いてみたが、どうも全部書いたとも思えない。忘れたいことは忘れたのだろう。自分のどうしようもない中途半端だけがはっきりする。
移住して自給自足を目指した。絵が分からなくなったのだから、絵を描くことから離れて、自分を原点から作り直すしかできなかった。原点がどこかもわからないのだから、自分の身体を作っている食べものを自分の手で作ってみようと考えた。どうなるかはわからないが、自給自足に挑戦してみようと考えた。
それで、最後の個展をした。今は無くなった文芸春秋画廊だった。生前葬を展覧会の形でやった。この後は個展はやっていない。そう案内状に書いたとおりである。こんなことが書いてあれば、来ない訳に行かないと言われたのを覚えている。
油彩画の道具はすべて捨てた。そして、文芸春秋画廊で最後の個展を行った。絵を売る暮らしを終わりにした。絵をもう描けないでもいいという気持ちだった。
描きたくなった時だけ描くことにした。それは今でもそうしている。描きたくなれば絵は描くが、絵描きになるという事は止めた。売れない絵をなんとか売るというような、辛いことはしないことにしたのだ。というか出来なくなった。
絵を売って生活するのが絵描きた。だから画家というのだ。絵を売って家を建てる人のことを画家というのだ。と聞いたことがある。お金のことは執事に任せておけというのが絵描きだ。とも聞いた。お金は若い頃は親のすねをかじり、年を取ったら子供のすねをかじるのが絵描きだ。というのも聞いたことがある。
今は70歳になって、絵を描いていても許されるかなという気分で絵を描けるようになった。絵を描くことそのまま暮らしている。絵を描くことが生きるという事になる。そんな絵を目印にして、前を向いて進むのが今の生き方だと思っている。大したことのない絵をひたすらに描いている自分でいいのだと思っている。ひたすらであることが出来れば十分である。
自分にひたすらな生き方があれば、いつか絵の上に現れる。それが絵描きではないかなと思う。媚びた絵を描いたり、自慢げな絵を描いたり。人真似であったり。絵は自分をごまかせないものだ。生活の為に仕方なく描いているというような言い訳もない。絵描きというものを目指す。自分をやり尽くす以外に残されたことはない。