絵描きとはどんな人のことなのだろうか。

   



 久しぶりに鉛筆デッサンをやっている。デッサンは練習とか、基礎とか言うことでは無い。色の無い形式で絵を描いている。要素を減らして、自分の絵は何なのかを探している。デッサンをしていると、何が描きたいのかが絞れてくるようだ。
 絵描きになりたいと子供のころ考えて、そのまま今になった。職業的には絵描きという者にはなれなかったが、やはり自分の目標は絵を描くという事にある。農業をしながら絵をかけたという事はとても良かったと思う。

 そして、ブログを書いてきてよかったと思っている。その恩恵は様々ある訳だが、一番は自分の励ましになっているということだろう。日々何かと不安な気分に陥る。迷惑をかけている。間違っている。書くことでその怖さを軽減できているようだ。

 もう一つは自学自習である。書くことで調べたり、新しいことを知ったり、確認したりする。やったことを書いておくことで、次にやるときに参考になる。その積み重ねで、だんだん自分のやっていることを進めることが出来る。
 毎日文章を書くことが私には必要である。継続することで頭が訓練される。文章を書きながら考えが深まる。身体を動かすのも同じだ。一日休むと戻るのに何日もかかる。年を取るとその時間が長くなる。やりたいことを意識して継続することを努力する。

 絵も同じ事になっている。私の場合の絵を描くという事で、世界を見ていることになる。自然の成り立ちのようなものを感じようとしている。絵を毎日描くことと、その絵のことを書きながら考えることが大切になっている。その考えることに役立つのが、ブログに書いてみることになる。書いて見て、考えが深まるという事がよくある。

 絵描きにはなれなかったのだが、絵はいつも描いてきた。あと何年描けるのかわからないが、自分の生きるという事を絵を描くという事でやり尽くしつもりだ。すこし、絵描きになろうとしてきた過程をおもいだして書いてみたい。なんとなくすっきりしない自分を直視してみる。

 子供のころから絵を描くことは好きだった。特別にと言うほどではなく、普通に絵の好きな小学生だった。絵を習うようなことはなかった。祖父は日本画を弟子入りして修業した人で、小学校の図版を作る職業の人だった。叔父は彫刻をする人だった。そんなこともあり、自分も絵を描いてゆきたいと考えうようになったのではないかと思う。きっかけというようなものはなく、いつの間にか好きになった。

 中学に入るとすぐ美術部に入り油彩画を始めた。渋谷にあった地球堂に油彩画の道具を買いに行った。それまで水彩画を描いていたが、油彩画に憧れがあった。中学2年生の時に芸大に行きたいと目標を定めて、木炭で石膏デッサンを始めた。少年ピカソの足のデッサンが美術の教科書に載っていた。自分のデッサンと較べて、少年ピカソも大したことはないと思っていたぐらい傲慢だった。

 なぜ受験を続けなかったのかと思うが、父親が本気で芸大を目指すことを反対したことが大きかったのではないかとおもう。父は祖父や兄である叔父見てきて、息子にはやらせられないと思ったようだ。反発して頑張りそうなものだが、高校に入ると芸大を目指すことは止めていた。油絵は描いていたのだが、芸大には行かないことにしていた。

 父は絵描きになるなら、普通の大学に行き、そこから進めばいいというように話していた。何故そいう風に話したのかはわからないが、父は絵を描くという事をもう少し広く考えた方がいいと思っていたようだ。父を尊敬していたので、父のいう事に従ったのかと思う。

 そんなこともあり金沢大学に行って絵を描いていた。両親は大学に行くなら自分の力で行けとも言った。自分で大学に行っていたので、親との関係は薄れた。大学に行ってからは絵描きになりたいという事はかなり明確になっていた。両親には卒業する間際に就職はしないで、絵描きになるためにフランスに行くと伝えただけだった。今度は、そうかというだけだった。

 東京の家に戻りフランスに行く資金を溜めた。三菱エレベーターの設備会社でのアルバイト生活である。家にいるなら、食費は出せと言っただけだった。僧侶の母方の祖父がいくらたまったかと聞くので、今100万たまていると伝えると、同じだけ出してあげるので行くなら早く行けと言って100万円くれた。その時にパリにいる弟子丸泰仙という曹洞宗の僧侶 への紹介状をくれた。然しその紹介状は使わなかった。一度パリで会ったが話はしなかった。

 そして、3年弱フランスにいた。最初の一年はナンシーの美術学校へ行きその後パリのボザールに行った。そして両親が病気で家が大変だという手紙が兄から来て日本に戻ることにした。
 帰国して自分も調子が悪いので、病院に行くと結核になっていて、だいぶ体が弱っていたことがわかった。無理をして絵を描きすぎた。良い時に帰ったのかもしれなかった。

 戻ったがどうすれば絵描きになれるのかは皆目わからなかった。公募展というものにあれこれ出した。出しても入選したり、落選したりであった。到底公募展で何とかなる人間とは思えなかった。コンクールというものにも何度か出したが全く駄目だった。評価される絵を描くという能力はなかった。
 どうもそういう評価される絵が理解できなかった。私の描く絵が、日本の公募展やコンクールとは異質だった。今思うと、美術学校の先生であったザバロ風だったのだから、違ったのは当然かもしれない。

 フランスでザバロから学んだものは日本の当時の公募展やコンクールとは全く違っていた。そんな行き詰まっていたところに、史染抄という銀座の画廊の山田文さんが何故か私の絵を評価してくれた。それで史染抄で個展をやるようになる。

 山田さんを紹介してくれたのは、金沢の先輩だった庄田常章さんであった。ずいぶんいろいろの方を紹介してもらった。山田さんは津軽の人で、着物のデザインをやる人だった。感覚的な人で、何か私とは波長が合うという感じだった。毎週史染抄に遊びに行っていた。

 その後いくつかの画廊で個展をさせてもらえるようになった。いろいろの方の紹介に助けられた。あの頃は絵は売れる時代で、たくさんの新しい画廊が出来ていた。そうした小さな新しい画廊であった。まだザバロ風の絵を描いていたと思う。ザバロは日本の画廊で個展をやることもあった。
 当時、カトランやギヤマンが結構人気作家でザバロもその次に来ると見られていた。私の絵も公募展では受け入れられなかったが、何かフランス風の感じが受けたのかもしれない。

 まだながくなりそうなので、後半は明日書くことにする。

 - 水彩画