天皇は靖国神社には行かない。

   

天皇は靖国神社に行かない。総理大臣は靖国神社に参拝する。何故、日本の総理大臣は靖国参拝をしたくなるのかといえば、靖国神社には日本のために死んだ軍人が祭られているからという事になる。総理大臣は命がけで日本を守る存在という意識でいるだろう。だから死んだ軍人に対して、同じ気持ちを抱くのだろう。天皇は日本の象徴であるがゆえに、靖国神社に参拝しない。天皇が日本のために死んだ軍人を大切に思っていないはずがない。にもかかわらず、靖国神社に天皇は参拝するわけにはいかないという判断がある。日本を敗戦に導いた、戦争責任のある軍人が祭られているということだ。原発事故が起きたことでも東京電力では想定外の自然災害だから、社長以下一切の責任はないと強弁している。第2次世界大戦も日本は巻き込まれた自然災害のようなもので、責任はないというのが靖国神社を取り巻く思想なのであろう。しかし、国策として原発を進めてきた人間には事故を起こした責任というものがある。

戦争の原因というものも日本だけにある訳ではない。世界の大きな流れに翻弄されたという事であろう。それでも、日本国を敗戦に導いた責任というものは軍人に存在する。津波のような世界の潮流に襲われたとしても、仕方がなかったという事では終わる訳には行かない。最終的には天皇が責任者という事であろう。だから、昭和天皇には靖国神社に祭られた軍人に欺かれたという思いがあったのではないだろうか。天皇を鎮座させ、利用した軍人がいた。天皇は敗戦に至りこんなはずではなかったと感じているようにみえた。戦争責任というものを勝利した国が正義で敗戦国を裁くという事はおかしいことである。戦争の責任はかかわったすべての国にある。そして国を導いていたものが責任者という事になる。明治日本帝国の天皇制が間違った仕組みだったのだ。一方で、特攻攻撃で日本の為に死んでいった若者も祭られている。私もその方々の思いをおろそかには考えられない。何万の日本の為の戦争で死んだ軍人が祭られている。その人たちに対して、本当に申し訳ないという気持ちがある。だからこそ、国立戦没者霊園が必要なのだ。

二度と戦争はしないという誓いの場としての戦没者霊園は必要である。そこに戦争に関連して死んだあらゆる御霊を納める必要がある。その意味で靖国神社という、明治日本帝国の軍国主義を背景とした神社ではだめなのだ。私も参拝に行く気にはなれない。戦没者霊園であれば、お参りしたいと思う。もし国立戦没者霊園に日本の総理大臣が慰霊に行くことを、近隣諸国から批判されたならば、それは間違いだと堂々と言える。靖国神社というものは、軍人を祭り、軍人精神を鼓舞し、軍国主義を建前とする神社だから、総理大臣が参拝することが許されないのだ。民主国家として当たり前のことだ。ではなぜ、国立戦没者霊園を作らないか。それでは明治日本帝国の復活がかなわないことになるからだ。そういう軍国主義勢力が政府の背景には大きく横たわっている。アベ政権はその姿をひた隠しにして、見せないできているが本音では経済帝国主義と呼ぶしかない国づくり以外日本が生き残れる道はないと考えている。

特に平成天皇は平和主義者である。象徴天皇の意味を深く考え、憲法の意図に従い、平和主義日本の象徴としての道を摸索した。天皇は伊勢神宮との関係が深い。天皇は日本教の神主さんともいえるのだろう。日本教とは、イザヤ・べンダサンの指摘した日本教である。日本的なるものの根源にあるもの。この得も言われぬ消えそうでかろうじて残されているもの。私はその日本教を育んだ根源にあるものが稲作ではないかと考えてきた。日本人の立ち振る舞いのようなものにまで、大きく影響をした稲作文化。江戸時代に天皇家が造営した「修学院離宮」にその造形として表現されたものがある。要するに、日本の稲作をする部落を箱庭化したものだ。かつては日本の至る所に存在した日本的な暮らしの造形である。日本教は日本人の暮らしが生み出したものだ。稲作文化というものは、平和主義の文化だ。だから、日本国憲法はアメリカの影響は強いだろうが、いかにも日本的なものでもある。以上の理由で明治帝国の靖国神社は、天皇には相容れないものがあるのだ。

  

 

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