舟原ため池の管理

   

舟原ため池にツルボの草むらが出来た。朝ため池に行く楽しみが増えた。田んぼの畔にも出てくる草だが、これも一面の花盛りとなるとなるとなかなかいいものである。舟原ため池の所有者は小田原市である。その管理責任者は農政課である。そして久野里地里山協議会が管理の委託を無償でされている形になっている。先日両者で会議を持って、どんな整備を進めるか話し合った。1、ベンチを5つ置く。山の仲間たちに依頼。2、入口の堤防上の緑色の見苦しい金網を撤去し、木杭の柵に変える。3、ため池の石垣に生えた、さわらの伐採。今年中に行う。4、樹名板の設置。里地里山にある普段見慣れている木だと思うが、木の名前を子供たちが知ることが出来れば、親しみがわくだろう。5、上下の池を繋いでいる水路の改修工事。6、橋の設置。案内標識の設置。7、解説看板の設置。堤防に登る階段の設置。8、年一回のカイボリを行う。9、将来魚道水路の設置を検討する。以上の事項を進めることが決まった。また、この会議で冬の間の水不足に対して、田んぼ水路からの取り入れが出来ないかと農政課が進めているとの提案があった。

カキツバタは少しづつ新しい芽を出し始めた。来年開花するのかとても楽しみである。あと1週間ほどしたら、周囲に堆肥を入れようと考えている。

小田原市が資材を提供し、里山協議会が工事を実施することになる。この労力はすべて奉仕で行う事になっている。問題は柵を作るという案が出ても、どんな柵を作るのかは、実施をする里地里山協議会が決めざる得ない。つまりこういう柵にしてほしいという、小田原市の考えがあるとしても、それを作れる力量があるとは限らない。コンクリートの柵を作りたいならば、業者に依頼するほかないだろうというようなこともある。ところが小田原市は出来るだけ予算をかけないで整備したいと考えている。だから、業者に依頼は出来ない。せめて、間伐材の杭は提供するから、農政課の考えも取り入れたものを作って欲しいという事になる。それでいいのだけれども、看板ではどうも両者の考え方が食い違った。看板の目的が違うのである。里地里山協議会では農業遺構として、この溜池を残したいという意志がある。それが反映した看板であってほしい訳だ。ところが市の提案による看板は公園の案内図のようなものだったのだ。ため池にどのような歴史があるか。ため池とは何のためのものなのか。こういうことは書かない方が無難という事らしい。

水面に藻が広がり始めている。今年の暑さもあり、少々富栄養化しているのかもしれない。

舟原ため池が出来た時代は、久野の人口が増え、農地が広がっていった時代であろう。久野の古い家も江戸の初期の時代から、先祖の確認ができる家が多くある。江戸期に入り、平和な安定した時代になる。そして幕藩体制が整備されると各藩の農業振興が進む。そこで新田開発が全国で盛んにおこなわれた。田んぼが広がれば、当然水が必要になる。田んぼ水路や溜池の整備が進むのである。この時代に舟原ため池も生まれた。江戸時代初期の万治年間に築造された。それは全国のため池の歴史に適合する。また久野に田んぼが開かれてゆく時代を想像することができる農業遺構という価値がある。代掻きの時期には久野の下流域一帯に水を供給した。現在の久野小学校の学校田などへも、この水が送られた水路が今も存在する。見学に来た久野小学校の子供たちにも、この溜池の意味が理解できるような看板であってほしい。小学校田で耕作する気持ちも変わるのではないだろうか。それが農業遺構としてのため池の意味ではないだろうか。

農政課の意向に従い、冬場ため池に回して水を入れることをお願いできないかと、西側にある田んぼと水路を作った方に相談した。ところが水利権上問題があるからできないという事を話された。その水利権を示す絵地図を見せて頂いた。明治10年に書かれたものであった。これは3つのため池と水路が記載された極めて重要なものであると思える。ぜひ農政課にこの地図を見て頂き、コピーを作ってもらいたいとお願いした。理由は冬場何故水を回せないかの理由がこの絵図にあるからだ。それは笹村個人の意見なので取り上げない。里地里山協議会で話し合いを持ち、それが結論であるなら、検討してもいいという言われた。笹村個人の意見であるとしたら何処が問題なのだろう。そういえば草刈りでも届け出てから行えと言われたことがある。どうも笹村の勝手にさせてはならない、という意見が農政課にはあるのようだ。私個人に対して、気に入らないと考えている人が農政課にいるようだ。行政と共同したことはいつもこういう結果になる。ため池も軌道に乗ったようだし、丁度良い引き際かもしれない。

 

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