感じる力の磨き方

   

あれ、熱がありそうだな。というような経験はほとんどの人にあるだろう。でも何度くらいで気づくかは人によって違う。わずかな体温変化にも敏感な人もれば、高熱にも気づかない人もいる。では体重が何キロであるかをどの範囲で分かるだろうか。100グラムの変化に気づけるだろうか。以前も水風呂に入ることを書いたが、17度を中心にしている。この水風呂に入って、何度であるかを感じることができるかである。私は16,9度であるか、17,1度であるかがわかる。那覇のリッカーの湯に入った時に、水風呂があったが、温度計がなかった。私が水風呂に入っていると、おばあーが水温を計りに来た。16,5ととっさに口を突いて出てしまった。ドンぴしゃりとおばあーがびっくりしていた。そのはずである、水風呂に入ると必ず、水温を体で感じて当てる訓練をしている。感じる力を磨こうという思惑である。自己流内観法である。今久野川の水温を毎日はかるが、こちらはなかなか当たらない。8度9度10度11度で大きく変動がある。

自分の刻々の体調を自分で判断する。これができるかどうかが日々の暮らしには重要なことだ。今の自分の腸の状態を想像できるだろうか。私なりに大事な腸のことをいつも想像を巡らせている。自分の腸を内視鏡のテレビ画面で見たことがあるが、あれとはだいぶ違う。視覚というより、感触として腸の状態を感じようとしている。ただ、内視鏡で見た感じは感じるときに実に役に立っ用になった。イメージ化しやすくなった。今何度くらいであるか。これも時々確認してみる。部屋や作業場には温度計があちこちにある。体感で何度と確認してから、温度計を見る。お風呂に入れば、何度のお風呂かも当然まず体で判断する。発酵の麹の温度なども、まず自分で何度かなと感じてから温度計を見る。温度を感じる訓練である。もちろん体重も何キロと考えてから体重計に乗る。100グラムまで大体は当たる。もちろん食べた、飲んだの計算も測定材料である。

何故こんな冗談のようなことをしているかと言えば、絵を描くためである。絵を描くには見る力を研ぎ澄ませなければ見えるものも見えない。見るというのにも、段階がある。漠然と見ていても、稲の葉の色などの判断はつかない。スケールがあるのだが、スケールで分かる以上のことを見てわかるようになる。稲の状態である。それは稲を育てたことのある人だけにわかるものだ。そのように空を見ていれば、空の違いも見えてくる。青い空などと言ってもずいぶん違うものだ。木の緑などと言葉にすれば、ひとくくりの緑であるが、その多様さ複雑さは呆然とするほどだ。日々違うのだ。同じに見えてもすぐに変わってゆく。見えているという事の段階を今まで何段くらい登ったのかは分からないが、子供の頃とは見え方が違う。昔より見えているという実感があるから、この先まだ見えるものがあるだろうという気がしている。絵を描くことでその見えるという事の奥行き深めてゆく喜びがある。

感じるという事である。実は表面的な、見るとか触わるとか、体感するとかいう以上に、悲しみや喜びを感じるという事がある。刻々をどこまで深く感じることができるのかである。生きるという事ではこれが一番大事なことだ。スリットドラムをたたいていい音がするという事は、究極的には機械で測定できないものがあるような気がしている。それでもあれこれ工夫して作っては敲いている。音の違いが少しづつ分かるようになってきた。耳が聞こえるようになったのだ。木を敲く音が、より自然の世界の音になるためには、自然を知らなければその音を打ち出すことは出来ないだろう。眼も、耳も、感触も、すべての感性は磨いて研ぎ澄まされてゆくもののようだ。生きることも自然の哲理を知らなければ深く生きることは出来ないと考える。自分が生きているこの世界の総合性を感じ取ることが出来なければ、私という人間が生きたという事にはならないのではないだろうか。

 

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