幸せの自給

   

自給が最後に向かうところは、幸せな人生ということになる。幸せに暮らす日々を自分の手で作り出すという事なのだと思う。好きなことをやって日々を送ることが幸せなのだと思うが、そのことが自分一人で終わっていたのでは、幸せとは言い切れないのが人間なのだと思う。自分の行為が人の役に立つという事で、自分の幸せは支えられている。三線を弾く。太鼓を作って敲く。こういうことは変え難い楽しみである。自分の活性化でもある。しかし、そのことはその限りで終わる。人様の役には立たない。これでは十分な感じがしないのが人間である。私には自分のためだけの日々では、幸せとは言い切れない。自分が生きて、好きで行ったことが、人様の役に立つものであってくれれば、自分の生きている甲斐もある。私には、それが絵である。絵でしか表現できない。里地里山を作り出した人間の在り方を描き残したいと考えている。三線が自分の楽しみを超え、人に何かを伝えるものになるには、自分が楽しむレベルではだめなのだろう。それが表現というレベルなのだと思う。

世界で一番豊かな国アメリカは不幸な国に見える。拳銃で武装していなければ安心できない国は、実に不幸な国だと思う。世界一幸せな国としてブータンが言われたことがあった。この2つのことは、幸せと経済的豊かさとは、少し違うという事を意味している。豊かさの背景に、深刻な格差が存在するという事がアメリカの不幸を生んでいる。敗者となる不幸な人を当然とするのでは、本当の幸せはないのだと思う。ブータンは貧しいながらも大地に根差して、格差なく暮らしている。ブータンは最近まで鎖国をしていた国だ。日本も江戸時代という鎖国の時代がある。江戸時代が幸せな時代とはいいがたいところはあるが、江戸時代の中に幸せの国を目指す何かがある。能力主義を超えた価値観を見つけることができるかもしれないという希望である。他と比べない、競争を超えた価値観を探すことが、幸せな国づくりなのではないか。

幸せへの道を考えると、すべてのことが幸せの道という事になる。すべてのことが実は幸福論なのだ。幸せは科学であり、哲学である。そして日々の暮らしの実践論も幸福論でもある。コンピューターゲームに一億円プレーヤーが登場して、拝金主義としては、価値ある職業という事になるのだろう。果たしてその先に本当の幸せがあるかという事になる。機械に勝利することができないゲームに、人間という生き物の価値を費やしてよいのかという事である。私は将棋にのめり込んだ時がある。しかし、自給生活を始めて、やりたくなくなった。もっと面白いし、人の役にも立ちそうな気がしたからだ。作物を作ることは、人間としての総合力が必要になる。知力、体力、と天命。明日の天気をいくら予想しても外れることはある。外れることで、一年の努力の結果の1割が無駄になる。それを気持ちよく諦めることも、幸せになる道だと畑に教えてもらう。

多分、自給に暮らす幸せ感を、これほどに味わっている日本人は数少ないと思う。その数少ない中で、絵を描く人間はまずいないだろう。この幸せ感は絵なら描けるのかもしれないと、思うようになった。詩人八木重吉は幸せの家の軒先からは、炎が見えると書いた。その意味はいまだ分からないが、幸せは実は困難で、真剣なものだと感じる。里地里山に生きる幸せというものは、楽なものではない。矛盾に満ちている。これは絵なら描き残せるかもしれない。たぶんもう大半は失われた世界だ。私が描き残さなければ、消え失せるものだと思うようになった。茅葺きの日本の家屋を描き続けた人がいたが、あれはジオラマのようなもので、本当の里地の暮らしを感じさせない。私が少しでも自給で暮らす幸せ論を描くことが出来れば、人様の役にも立つのではないかと思い至った。そう思うようになってから、絵を描いていて、面白くしようと絵を描いてはいない自分がいる。絵として面白い必要はなくなったようだ。

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