依存と習慣

   

フランスにいた時ゲーム依存症になったことがある。ゲームをやらなければいられなくなった。何故かと思うがビンゴゲームである。孤独に絵を描いているうちに、ビンゴゲームにのめり込んだ。くだらないと思いながら止められなかった。あれはあれで結構テクニックが必要で、やると上手になるのというところにはまった。子供のころを思い出せば、メンコやベーゴマに熱中して、やはり普通の状態ではなかった。そういうことで自分の中に依存症的傾向が強いことを承知している。パチンコでも、競馬でも、株でも、たぶん始めたら止まらない性格だ。その恐怖があるので、賭け事には近づかないように生きてきた。依存症と生活習慣は近いことではないだろうか。善悪は別である。良い習慣であれば、依存症的に続くことは悪いことではない。暮らしの習慣化である。生活習慣を日常化する。例えば夕食は食べない習慣は結構続いている。早寝早起きも、子供の頃からこだわるところがあった。

このブログも毎日続けている。毎日書かないと書けないからである。ときどき書くという形で続けている人もいるが、私にはそれができない。毎日と決めると何とか続けられている。気持ちが弱いから、習慣化というか、依存症的にやらなければできないのだと思う。自給生活もそろそろ30年である。自給と決めたら、草根をかじり、泥水をすする暮らしであっても、何とか27年間切り抜けられた。自給が良い生活習慣になってしまえば無理という事はない。あとは自給に固執して続ける。9年間毎日ブログを書くというのは、9条の9年ブログである。平和憲法が変えられないという願掛けであった。ここまでは願い通りであった。しかし、憲法がますます危うくなってきているので、止めるわけにはいかなくなった。9条がある限り続けたい。私の命が途絶えたとしても、9条があれば、願掛けブログはどこかで何万人規模で続くだろう。

良いと思うことは、依存症的に習慣化する。頑張ろうと思うより、好きなる。たいていのことは突き詰めれば面白くなる。その面白さがわかるまで続けるという事が難しいだけだ。好きなことを習慣とする。これは誰にでもできるはずだ。雨の日でも散歩をしている人がいる。意志の強い人と見えるが実はそうでもないのではないか。一日も休めない人なのだろう。この気持ちは分かる。休んでも続けられるほどは強くないと自覚しているから、雨の日も歩く。そのうち歩かないではいられなくなるのだろう。好きになる所までゆくために、目的を複数化することにしている。農作業ならば直接の目的は食糧の自給である。しかし、健康のための運動でもある。絵を描く気持ちを育てる動作することでもある。生育の予測を立てることは頭の訓練でもある。目的を複数化しておけば、頑張りが利く。犬を飼うという事だって、面白いだけではない。仲間ができる。防犯になる。運動になる。何でも目的を複数に考えておくことにしている。

農の会では自給を目指している。一人でやり切れる人もいるが、みんなでならできるという人もいる。作物によっては一人の自給よりはだいぶ楽だからだ。自分のため以上に力が出るという事もある。始めてみて一人でもできる自分に気づくこともある。お米、小麦、大豆、お茶、とある。あと可能なものは、ジャガイモと玉ねぎではないだろうか。野菜は基本それぞれがやった方が合理性がある。みんなでやるという違う目標が加わるから、継続が楽になる。お茶は代表的な例で、1本のお茶の木があれば、お茶の自給は可能だ。しかし、お茶を摘んで、それをお茶にするまでがなかなか大変だ。道具も必要だし、手もみで行うのは技術が必要である。みんなでやれば、お茶の自給は20時間あれば可能になる。田んぼの作業は多様である。それぞれが役割を分担することで、作業の合理性が生まれる。結局のところ、昔の部落の結である。

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