肥料という考え方
肥料がなければ作物は育たない。これは常識として一応はある。一方に、自然農法の考え方の中には作物は一切のものを持ち込まずとも、収穫できるという、魅力的な農法が言われる。つい可能ならばと幻惑される考え方である。夢の作物の栽培法のような観念が形成される。私もずいぶん挑戦をしてきた。自然という言葉が着けば、一段上の農法のような感じすらある。ここにある大きな考え方の開きが、近代農法というか、一般農家との溝を深めるところである。私は、その地域の平均収量より低い、生産性しか挙げていない栽培方法は、農法とまでは言わないことにしている。ただ未熟なだけだと考える。この田んぼは30年無肥料の自然農法です。と言われても周辺農家より低い生産性なら、評価しないことにしている。参考にならないと考えている。それは養鶏でも同じで、自然養鶏だと自慢しても、卵が60%産卵に達しないようでは、養鶏法とまでは言えない。
作物には肥料は必要である。、窒素、リン酸、カリ、微量ミネラルを含めイオウ、カルシウム、マグネシウム、鉄、マンガン、ホウ素、亜鉛、銅、と高校のころ覚えた肥料成分である。これを自然の循環の中に織り込んでバランスをとってゆくと考えるのは、近代科学の成果である。これを知らずに取り込んでいた江戸時代の農法は理に適っていて、東洋4000年の循環農法である。そこに、近代農業の科学的学問成果を加えて、自分なりの、つまり自分が暮らす場所の特性に合わせて、作り上げてゆくのが、自給農業である。土壌が十分でなければ、土壌の肥料分を作物は取り入れることができない。土壌が十分成熟しているという基本は腐食質がどれだけ土に含まれているかではないかと考えている。そして養分の受け渡しを微生物が担ってくれる。作物を栽培すると、腐植は減じる。もし、5年も腐植を加えることなく、作物を作り続ければ、その土壌はまるで砂漠のようなものになる。作物を支えるロックウールのような支持体ではあるが、作土とは呼べないような性格のものになる。
近代農法であれば、水耕栽培が成立する。水溶化した肥料を根から吸わせるというようなこともあるのかもしれないが、それは一方向の農法であり、永続性があるとは言えない。つまり収奪的農法という事になる。肥料成分をどこかから持ち込み、収穫物を持ち出すという、循環のないものであり、永続農法とは呼べないだろう。これは大きな枠で言えば、プランテーション農業の延長線上の考え方である。その土地で農業が継続されてゆく形を求めるのが農法には必要である。肥料成分だけを直接根に吸わせて作物を作ることは可能なのだろうが、それは微生物の介在しない作物という事になる。無菌状態で作られる作物では、人間の食べ物としては不完全なものだと考える。生物の体というものは、細胞の数と同等以上に、他の微生物が存在して成り立っている。すべての静物が微生物と共生して命を形成している。
肥料は堆肥化して入れる。あるいは畑の土壌と調和させながら、堆肥化する。堆肥は微生物の住処である。堆肥は畑が耕作されることで減少してしまう、腐植質を補うものでもある。一反の畑であれば、1トンの堆肥が必要と考えている。1㎡で1キロの堆肥である。このくらいは毎年入れなければ、土壌は豊かなものにはならない。堆肥には叢生堆肥もあれば、落ち葉堆肥もある。牛糞堆肥も、鶏糞堆肥もある。当然人糞堆肥もある。動物由来だから、植物には害があるので使わない方が良いというのも、おかしい事だと思う。自然の摂理から言って、すべてのものは循環の輪の中にあるはずだ。動物の糞も素晴らしい材料である。東洋4000年の循環農法の基本は人糞の利用である。人間が食べるものを作るのに、人間が食べた結果の人糞を利用するのは理に適っている。いずれにしろ、堆肥を上手く作れれば、材料に差があるわけではない。